2012年4月12日木曜日

●コモエスタ三鬼28 偶然と固有性

コモエスタ三鬼 Como estas? Sanki
第28回
偶然と固有性

西原天気


特高警察に検挙(1940年)とその後の保護観察処分、また太平洋戦争やらで、およそ5年の休俳期間があり、終戦。

国餓えたりわれも立ち見る冬の虹  三鬼(1945年)

寒灯の一つ一つよ国敗れ  同

こうしたいかにも敗戦直後、といった2句で、三鬼の戦後が始まるわけですが、どうでしょう? 2句ともに、魅力は薄い。

日本全体が飢えていたことは、今からすれば歴史的事実。当時を知らなくても誰もが知っている(気がする)、いわゆる「ニュース」的な事柄です。空腹のまま路上に立ち、仰ぐ虹。あるいは、夜、街の灯を眺めながら、敗戦という揺るがぬ事実を思う。1945年の景色として納得はするものの、それは、きっと誰がそこにいても抱くような感慨、という気もします。

例えば、

広島や卵食ふ時口ひらく  (1947年)

は、戦争・敗戦を色濃く反映した有名句ですが、この句と前述2句との決定的な違いをざっくり言えば「固有性」の有無といえます。

飢えや虹や寒灯や敗戦が「一般性」と契りを結びすぎているがゆえに、その句が切実にそこにある理由が見出しにくい。

一方、広島、卵、開いた口。それらは、一般性とは断絶し、「たまたま」そこにあります。作者・三鬼がそのとき卵を食べたこと、「口ひらく」という認識を句に定着させたことに必然はありません。固有性とは、しばしば偶然の別名でもあるようです。

俳句にまつわるスタンスや好悪もありますが、私たちが俳句を読んで、驚いたり心を揺すぶられたり気持ちがよくなったりするのは、たまたま「そこ」に生起した(ゆえに「そこ」にしかない)「それ」を見せられたときです。

みんなが思っていること、思うであろうことを巧く17音にまとめるのも俳句、とはいえ、それは俳句の重要な仕事ではないような気がします。俳句は要約ではなく(凝縮でもなく)、ひとすじ壁を汚すペンキの刷毛跡、イメージの一閃、みたいなものでしょう、きっと。


ちなみに、《広島や卵食ふ時口ひらく》は、『俳句人』1947年5月号初出時は《広島や物を食ふ時口ひらく》。「卵」でなく「物」。卵のほうが断然いいのは、やはり「個別」という問題と関連するはずです。なお、この句、「有名なる街」と題された連作のうち一句。《広島に月も星もなし地の硬き》など「広島」で始まる句が9句並ぶ、そのうちの一句。

もうひとつ、ちなみに、今では三鬼の代表句のひとつとして有名なこの句、句集『夜の桃』(1948年・七洋社)には収録されなかったことでも知られる。


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