2013年4月30日火曜日

●「石田郷子ライン」についてのメモ 近恵

「石田郷子ライン」についてのメモ

近 恵

≫上田信治【週刊俳句時評79】"石田郷子ライン"……?


んと、バブル期を謳歌し、かつその崩壊を目の当たりにし、お金で買えるしあわせから、お金では手に入らない精神的しあわせを望む方向に意識を転換せざるを得なかった世代か。

精神的しあわせの延長線上に、自然回帰願望、バブルの延長線上に生活感のなさがきている可能性は?

「お金=不浄のもの、人を狂わすもの」から、反動でお金に換算できない「自然っぽい」ものへ、「清浄っぽい」ものへ。

あるいは「自分探しの旅」をする人が増えてきた時期とは重ならないか。こうありたい自分、こうあるべき自分を何かで表現したいとか、実現したいとかという無意識の欲求。実際にバックパッカーとして自分を探す旅には出ないけれども、表現方法として俳句を得ているので、そこにそれが現れる。

季語にある自然を詠もうとするとき、実際に自然と対峙して生きている生活者とは違う、理想の自然を詠みあげる。それは「ありたい自分、あるべき自分」を実現するための表現として俳句が機能しているからで、当然土俗的だったりはしない。
小川軽舟さんが「彼女たち」の「代表」として石田郷子を挙げ、その俳句の特質を「素地のまま」「俳句形式だけを手がかりに」「世界を受容し、また世界から受容されながら」と評したこと。

"石田郷子ライン"の特徴は、まず、ことごとしい「文学的自我」や「作家意識」を前提としないことにあります。
上田信治【週刊俳句時評79】"石田郷子ライン"……?〔後編〕
「彼女たち」というくらいだから、圧倒的に女性が多い。小川軽舟氏の評は、生命を宿し生むことのできる女性の特性そのもの。女性は多少人間の存在意義に悩みかけることがあっても深追いしない。なぜなら既に大きな役割を得ているから、そこで自身の根本的な存在意義に深く悩む必要がないのだ。ゆえに世界をありのままに受け入れ、逞しく生み、育てる。ただし全女性がということではない。個人差は大いにあるし、表面化も個体差はあると考える。

一方男性は種蒔きをするだけで他に役割がない。だから人間(自身)の存在意義を深く考えたりする。哲学者が男性ばかりなのはそのあたりが根源だろう。結果、他人と差別化を図り、競争し、自分の城を築こうとする。当然俳句においても「文学的自我」や「作家意識」が強くなる。あるいは「組織」で「天辺に行こうとする」とか。ただしこちらも全男性がということではない。個人差は大いにあるし、表面化も個体差はあると考える。

まあこのあたりの女性ならではの特性と、バブル崩壊により転換した価値観と、「こうありたい自分」の表面化が、より美しい自然が好きで、どろどろとせずに、深くこだわらずにライトで、感じも良くて……となるような言葉で実現されている俳句が「石田郷子ライン」的なものなのかなあ。

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