天の逆手を打ち成し
中原道夫「西下」を読む
猫髭
中原道夫「西下(さいか)」は旧字旧仮名で書いてあるので、こゝから舊字舊假名で讀んでみる。
タイトルの「西下」とは、首都を中心にした呼稱で、現代では首都東京を出て西方に下ることを言ふ。この作品の場合は東京都から滋賀縣は琵琶湖への遊山を指す。逆は「東上」と言ふ。京が都だつた平安京の昔は、唐の洛陽に因んで「上洛」と言つた。京から地方へは「下洛」で、『伊勢物語』の「東下り」の落魄を引くまでもなく、語の響きだけで下落を聯想させる。先祖代々京で暮らす人々は、天皇陛下を「天子樣」と慕ひ、「いつか歸つてきやはる」といまだに京都へ戾ることを信じてゐるので、天皇の東下りにのこのこ附いて行つた羊羹で有名な虎屋を「おのぼりさん御用達や」と蔑み、虎屋は東京の老舖だと勘違ひしてゐるおのぼりさんが、←ワタクシノコトダガ、土產に「夜の梅」などぶら下げて行かうものなら「京都では犬も食はへん」とにべもない。確かに虎屋がなくとも茶席に出る京の和菓子は口中に虹を立てる。したがつて、都びとであれば、東京へ行くのを「東上」とも「上京」とも言はないし、云はんや「西下」をや。
わたくしは常陸の國の東男で、夏目漱石が『坑夫』で「赤毛布(あかげつと)」←ヰナカモノノ意、と「芋」をエモと訓ずる、あんまり有難い音聲ではない茨城のエモ男だから、都びとに言はせると「重力が2Gくらゐ重いところや」といけずを言ははる。さういふ京都も國に圍はれた妾のやうな街だと吐き捨てた東都の作家もゐた。誰だつたか忘れたが、太宰治あたりが言ひさう。←ワタクシモ言ヒサウ。
歲時記も虛子が『新歲時記』で「季題の排列は大體東京を中心とし」とするまで京都中心だつたから、昔からの俳人は「時雨は京だけのもんや」と云ふことになるので(一應虛子も「時雨」の季題では「京都の北山の時雨など殊に趣が深い」とお愛想を打つてゐる)、作者もそこのところは心得てゐるので京都へ行くことを「西下」とは言はない。滋賀縣の琵琶湖だから使ふ。滋賀縣民が憮然とするかどうかは大津市にお住まひの対中いずみさんにでも聞かないとわからないが、彼女はおつとりした上品なひとで「雪兎おほきなこゑの人きらひ」と詠んでゐるくらゐだから、唇に手を當てゝ、ふゝゝと微笑むだけだらう。←「私ハ猫派デ鷹派デ秋ノ風」ト詠ンデイルノデ、目ガ笑ツテイルカダウカマデハ知ラナイ。
におの海蘆荻に水も溫むころ
「鳰の海」とは琵琶湖の古名。鳰はかいつぶりの古名で、留鳥だが、俳句では冬の季語。夏になると水面に浮巢を作るので「鳰の浮巢」は夏の季語。「にお」は舊假名では「にほ」なのでタイポ〔*〕。『萬葉集』には「にほ鳥の潛く池水心あらば君に我が戀ふる心示さね 大伴坂上郞女」といふ相聞歌があるから、今も昔もかいつぶりは身近な水鳥と言へるが、當時は琵琶湖は「淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ 柿本人麻呂」とあるやうに「淡海(あふみ)」であり「鳰の海」とは呼ばれてゐない。この呼稱が出てくるのは琵琶の形に似てゐるから琵琶湖と名づけた中世のあたりかららしいが、今でも夏になると、琵琶湖の蘆の繁るところにはかいつぶりが姿を見せて、浮巢の近くで頭を脚で搔いてゐる姿など實に愛らしく、夕日の金波銀波に搖られてゐるのを見ると確かに鳰の海だなあと、のほゝんとする。
「蘆荻(ろてき)」は蘆(よし。あしの讀みが良し惡しの惡しにつながるので忌み言葉としてよしと讀まれる)と荻(をぎ)のこと。「夕星を待つか蘆荻に吹かるるか 対中いずみ」といふやうに普通は秋の季語として詠まれる。
湖北菅浦の、白洲正子が「かくれ里」と呼んだ淳仁天皇を偲ぶ櫻、葛籠尾嵜(つゞらおざき)、陽炎に搖れる竹生島(ちくぶしま)の明媚に、北西の魞(えり)さしの光景、川嶋酒造の絕品「松の花」純米大吟釀の淸冽な味も懷かしいが、初夏の六條麥がゴッホの麥畑の繪のやうな恐ろしい色に染まり、一面の蘆のなかで大葦雀と小葦雀が大合唱し、夜は牛蛙の遠吠えがあたりを聾する琵琶湖の內湖である西の湖の圓山あたりの風情もおもむきが深い。この圓山は遊船でも有名だが、日本一葦雀がやかましいと思はれる濕原が廣がる。行々子とは能く言つたものである。
「水も溫むころ」と言へば、岸邊には燈臺草(菜の花のやうに綺麗なので茹でゝ食べたくなるが、毒草である)が咲き亂れ、土筆もばうばふと土手や道路に生えてゐるだらう。鳥と初春の季語「水溫む」の取り合はせは一茶の「鶯烏雀の水もぬるみけり」と云ふ樂しい一句を想起させる。
冬を越えて枯れた蘆荻の殘る琵琶湖の水も溫むころに東京からはるばる來たぜといふ一句で西下十三句は始まる。
分乘に見る春雨の右左
「分乘」とは一團の人々が二つ以上の乘り物に分かれて乘ること。琵琶湖は淡海・近海と、海に比されるくらゐだから、對岸は見えないほど廣い。遠海と呼ばれた濱名湖と同じで、海に出たと思つたら湖だつたと云ふので、海の字をあてるのはわかる。どこに行つたか詠まれてゐないので推測するしかないが、俳聖芭蕉の墓は大津市の義仲寺にあるので、湖西線に京都から山科經由で乘つたと見るのが妥當だらう。湖西線の驛からは場所にも寄るが岸邊まで歩けないことはないが、二月だとかなり寒いので、タクシーやバスを利用して湖畔まで行くのが常套となる。西湖の圓山から舟に分乘と云ふ繪も三句目に筌(うへ)といふ漁具が出るので捨てがたい。確か乘船場の事務所に漁の道具が飾つてあつたはず。
しかし、さうなら舟のそばに恐れることなく寄つてくる鳰を見る筈だから、春雨しか見えない野暮さはタクシーの中と云ふ仕儀になる。車中から詠まれた擦過の句は淺いと相場が決まつてゐるが、手の内を晒して、なほかつわざわざ「見る」と書く蛇足の「見る」。さう書く以上は「見る」に値するものが出てくるところである。
それが「春雨の右左」とはぐらかす。西下して何を見に來たかと問へば春雨を見に來たと言ふ、春雨に右と左の風情ありで、車中の野暮が窻の雨滴まで雅びに見えるやうな「右左」に開き直るところが面白く、實に粹筋。野暮と粹とは紙一重なのが能くわかる、座頭市ならぬ中原宗匠逆手切りの一句。
筌・竹瓮いつを最後に乾きたる
うへ・たつべは同じもので漁具である。細い竹を筒のやうに編み、一端を紐などで閉ぢ、他の一方の口から小魚が入り、外に出られないやうに返しを編んだもの。夕方沼や川に沈めて翌朝引き上げる。俳句では「冬」の季語。それが「いつを最後に乾きたる」と冬を離れて春近しともいふ風情。早春とは言へ肌寒い春雨の止む氣配の漂ふ一句。
茨城の水府川では夏になると、大きな筌に一升甁を入れ練團子を落として上流の淺瀨に沈め鰻を子どもの頃獲つたものだ。作者が見たものは公民館や川端(かばた)に置かれた筌・竹瓮の類かも知れない。子どもの頃にはまだ使はれてゐた漁具も、いつしか魚影が薄くなり使はれなくなつたと云ふ、昭和は遠くなりにけりの一景でもある。魞さしなども栅を湖に立てゝ魚を誘導して追ひ詰めて獲る漁法で、少しでも風が强いと舟は出ないが、觀光客も興じることが今は出來る。琵琶湖沿ひの店はどこでも魞や諸子や鮒などの佃煮を賣つてゐる。播磨灘の鮊子(いかなご)の穉魚の釘煮がいまは時節柄竝べて賣られる。この釘煮は明石名物で「魚棚(うおんたな)」では鮊子が揚つたと一報が入るや、主婦連が自轉車に入れ物を括り附けて買ひに馳せ參じる。一家ごとにその家の味があり、生姜を利かせたもの、山椒を利かせたもの、甘さを抑へて醤油を立てたものなど、その味はひの趣は格別で、どの家の釘煮もうまい。煮崩れないやうに箸を使はずに鍋ごと囘す煮方は共通。
おそろしく値の張る寒の根芹とふ
耳で聞くと「おそろしく根の張る寒の根芹とふ」と根芹好きは聞耳を立てるところ。宮城は名取の閖上(ゆりあげ)漁港(二年前の津浪で甚大な被害を受けた)に近い上餘田(かみよでん)・下餘田(しもよでん)の芹は、香も高く根も立派で日本一の芹の產地であり、根芹といふと、こゝの芹を思ひ出す。この餘田の芹のしやぶしやぶ鍋は今や仙臺の名物料理と化してゐる。牛タンと笹蒲と駄菓子だけが仙臺名物ではないのである。
だから「おそろしく根の張る」やつが上等と云ふことになる。それが「おそろしく値の張る」とすると白髮三千丈ほど長いのであらうか。
これは琵琶湖の西は芭蕉ゆかりの地で僧門の高弟内藤丈草も庵を構へ「我事と鯲(どぢやう)のにげし根芹哉」とおどけた句を詠んでゐるから、その流れの上での値と見た。丈草は芭蕉の臨終を看取つた一人で、その手鹽にかけた根芹の流れを汲むとしたらそれは由緖正しい野菜と言へるし、何と言つても『梁塵祕抄』に「聖の好むもの比良の山をこそ尋ぬなれ。弟子やりて、松茸、平茸、滑薄、さては池に宿る蓮の這根、芹根、蓴菜(ぬなは)、牛蒡、河骨、獨活、蕨、土筆」と歌はれてゐるため、俳句遊びをせんとや生まれけむ作者にとつては、西下して琵琶湖から臨む比良の山ゆかりの聖芹を食ひに參上と云ふ高値がつくのは是非ないといふところか。
摘草を料るにさつといふ手順
わたくしの知り合ひに野遊びにマヨネーズのチューブを持ち歩き、楤の芽や虎杖の若葉を見つけやうものなら、マヨネーズを絞り落してがぶりとやる山羊のやうな男がゐるが、すべての植物には毒が含まれるので(俳人なら一度は西武拜島線東大和市驛前の「東京都藥用植物園」に足を運び毒草案内人の說明を聞かれたし)、まあ、齧るとすれば虎杖ぐらゐが無難である。これは琵琶湖畔にはそこら中に生えてゐる。さきほど根芹が出て來たので「料(りよう)るにさつといふ手順」は芹しやぶと云ふことにすると、近江牛のしやぶしやぶもうまいが、芹しやぶの淸冽さは春を食ふ淸冽さである。根、莖、葉すべて「さつといふ手順」で食す。出汁は昆布・鰹節・干椎茸(どんこ)ベースの八方出汁の醤油味だが、隱し技としてヴィヨン・キューブを一個入れて鷄の脂(鴨肉があればさつと炙つて入れるのがベスト)を加へるとコクが出て芹の香りを引き立てる。和風鍋にヴィヨンかよと驚くなかれ、邪道だと目を剝くなかれ、八方出汁+ヴィヨン、和洋折衷の極みだヨン。「さつといふ手順」を忘るゝ勿れ。
ひたすらにも飽き何處ゆく風二月
何をひたすらにやつてゐて飽きたのかと云ふと、雨だし、寒いし、吟行にも飽きたし、早く暖かいところで二次會やらうよと、句會の前から、句會は參加することだけに意義がありメインは二次會と決めてゐるクーベルタン男爵のやうなやつらを能く見かけるが←ワタクシメモソノヒトリ、これは二月の風なので、「ひたすら(吹くこと)にも飽き」て「おうい風よ、どこまでゆくんだ三月の方までゆくんか」と作者が山村暮鳥よろしく呼びかけたものである。早春の琵琶湖に立てばわかるが、比叡颪がこゝまで吹きつけるかと思へるほどさぶい風が吹く。
立錐の餘地春雨の傘立に
「立錐の餘地もない」を逆手にとつて傘立に割り込ませたもの。意表を突く機智句だが、それだけの面白句かと云ふと、それが俳句かどうかと云ふ見立てでよく言はれる「季語が動くか」をチェックすると、この「春雨」は動かない。夕立でも秋雨でも時雨でも春雨の艷には敵わない。唯一「御降」と云ふ新年の目出度い雨があるが、聊か恐れ多いので、矢張り春雨に立錐の餘地だらう。遊んで、なほかつ季語が動かないのがプロの藝と言へる。
俳句は季語と云ふ白杖(はくぢやう)を突いて歩かないと轉んだりしたら骨折でもして命に關はるから、白杖にあたる季語がしつかり地面をとらへてゐないと歩くのもおぼつかないのである、とは坪內捻典氏の辯だつたか。かういふ逆手句は作者の獨擅場で、氏を尊敬する雪我狂流氏などは「傘立てに紫陽花山の水溜まる」(句集『冷奴』)と逆手句を詠んでゐるほどだ。
懷手湖岸は煙るものとして
琵琶湖に立つと思ひ出すのは「から崎のまつの綠も朧にて花よりつゞく春の曙 後鳥羽院」を飜案して「辛崎の松は花より朧にて」と芭蕉が剽竊した句。もろパクがゆゑに子規が「飜案の拙なるは却つて剽竊より甚だしき者あり、この句は芭蕉のために抹殺し去るを可とす」と、まるでインポッシブル・ミッションの「おはやう、フェルペス君」と云ふ挨拶に續いて出す暗殺指令のやうに、完膚なきまでに俳聖を扱き下ろしてゐる。
作者の眺める「煙るもの」には、後鳥羽院の花も松も隱れてゐるのだが、芭蕉も「我はたゞ花より松の朧にて、おもしろかりしのみ」などと氣取らずに「我はたゞ後鳥羽院の歌を盜みしのみ」と正直に笑ひ話にすればえがつたのに。えがねえか、こゝまで似でつと。
老殘のなぐさみ盆の梅ひらく
「慰め」は慰めるといふ行爲が中心で、「慰み」はその內容が中心となるので、こゝでは作者が手鹽にかけたわけではなく、どなたかが手鹽にかけた盆梅の開花を慰めに感じ入るほど、自分も老いさらばへたかといふ韜晦の一句。採りたてゝ見どころのある句ではないが、だいたい、盆栽といふのは凡才と耳で聞き違へるから、自尊心がぎんぎんぎらぎらのうちは手を出さない趣味で、この枝振りがまたいいのよね~と愛でゝゐる小學生を見かけるのは、皆無ではないとしても難しいものがあり、盆栽を慰めとするにはそれなりに足腰が立たなくなるといつた條件が必要になり、俳句も佛壇に入るのが近くなつてから俳壇に立ち寄るくらいがちやうど良くて、「生きのいゝ奴がやるものではない」から(詩人の吉本隆明が、むかし歌人の岡井隆と論爭した時に罵倒した言葉です)、この「盆の梅」は作者にとつては俳句の隱喩ともなつてゐるといふ味はひがある。
とはいへ、盆栽は傍で見るよりも過酷な趣味で、かなり木を虐めないと姿は良くならないから、ある意味サディスティックとも言へるし、試しに盆梅を預かつてみればその大變さはわかる。ちなみにわたくしはあつと言ふ間に枯らしてしまいました。金魚と似てゐて、構ひ過ぎても構ひ過ぎなくても死んでしまふ。俳句もさうですな。
つつがなく酒(ささ)が回れば諸子焦げ
「回れば」は舊字だと「囘れば」なのでタイポ〔*〕。もろこと云ふのは鯉科の十センチほどの魚で、琵琶湖の子持ち諸子が夙に名高い。この「夙に名高い」といふ言ひ種はわたくしは石川淳、隨筆雅號「夷齋(いさい)」先生の隨筆で知つたが、琵琶湖の子持ち諸子はこの言ひ種が相應しい琵琶湖の春の味である。殊に、近江富士と浮御堂を正面に臨む大津市本堅田の「魚淸樓」の諸子燒が究極とされる。炭火で兩面を炙つた後に諸子を頭から網に刺して脂を落すためである。醋醤油でいたゞく。「琵琶湖の姫」と呼ばれる佐保姫の味が口中に廣がる。
前菜として諸子をいたゞけば、あとに控へしは落雁發祥の地といふことで、靑首鴨の雄の鴨鍋。西は肉は砂糖を合はせる。近江牛も鋤燒は先づ砂糖で肉を炒めることから始めるが、出汁が薄味なのでさつぱりしてゐるやうに、こゝの出し汁もくどい砂糖味の鍋が增えてゐるのに抗ふやうに昔ながらのはんなりとした甘みの味で、〆の鴨雜炊がこりやまた絕品で、三十三間堂そばの「わらぢや」の鰻の筒切り鍋の〆の雜炊と竝んで京鍋の雜炊の華と言へる。
眼福滿腹のあとは目の前の「魚富商店」で魞の佃煮や鮒鮨を家苞(いへづと)にすれば、鳰の海の散財はこゝに極まる。
荒ち男の病むと聞きたり蜆汁
蜆は寒蜆といふぐらゐで冬の季語で、汽水に棲息するため宍道湖の蜆が有名だが、この連作は琵琶湖を背景にしてゐるので大津市瀨田の琵琶湖の純淡水の固有種、「瀨田蜆」を指す。我が鄕里も蜆の名產で、涸沼湖の蜆、那珂川の蜆漁は冬の風物詩。朝になると蜆賣りが「蜆はでつかいよお、父ちやん蜆だよお、榮養蜆だよお」と賣りに來たのは未だに耳に殘つてゐる。北上川や十和田湖の蜆も名高く、北上川の「鼈甲蜆」は色合ひも美しく大柄で紹興酒でさつと口が開くくらゐに煮て食べると蜆の槪念を覆す風味が絕品。瀨田蜆も黑色の色合ひではなく褐色の强い彩で、琵琶湖の滋養が口中に廣がる。古來より腎臟に效くといひ、元祿時代は侍の死亡率ナンバーワンが酒毒(アル中)で次いで腎虛(セックス過多)だと朝日重章『鸚鵡籠中記』に出て來るくらゐなので、この「荒ち男」もその英雄色を好む益荒男ぶりを彷彿とさせる一面を垣間見せるが、「聞きたり」といふ傳聞に「蜆汁」といふことから、腎を患ふと思しき友を憂ひ、滋養にと手向けた挨拶句といふことになる。
括淡と延べ春の湖國土なす
湖をうみと讀ませるのはわたくしは俳句では好まない。辭書にもさういふ讀みはないからといふこともあるが、俳句は詩ではないから、詩のやうに恣意的に言葉を括るのは外連が强過ぎるためである。俳諧では、「木枯の言水(ごんすい)」と呼ばれた、
凩の果はありけり海の音 池西言水
といふ有名な句があるが、この句には「湖上眺望」といふ前書きがあり、「海」は琵琶湖で、「木枯」は比叡颪を指す。琵琶湖を鳰の海とは呼びなすが、鳰の湖とは書かなかつたやうに。書けば相撲取の四股名になつてしまふ。
たゞ、この句は言水の逆手で琵琶湖連作の體を取つてゐる。言水が「湖」を「うみ」とは読めないので「海」と書いたやうに讀みだけを借りた體を取つてゐると言へなくもないので、固いこと言ふ勿れといふ仕儀
になる。琵琶湖だけは「鳰の海」と呼ばれてゐることを閱すれば、「國土なす」といふ雄渾の座五に納まる「春の湖(うみ)」とは琵琶湖以外にないだらうから。「括淡と延べ」にわたくしは葛籠尾崎の岬の伸びやかさを見る。
啐啄やきさらぎの殼まだ堅き
啐啄(そつたく)とは、雛が孵らうとするとき、雛が殻の内側からつゝくのを「啐」、母鳥が外からつゝくのを「啄」といふことから、逸すべからざるよい機會を指す。「啐啄同時」とは、「禪において、悟りを開かうとしてゐる弟子に、師匠が、うまく敎示を與へて悟りの境地に導くことを指す表現」(大辭林)なので、禪問答を想起することが多いが、わたくしは幸田文と父露伴との慈愛に滿ちた、しかし、娘から見れば父の「啄」にうまく啐啄同時とはいかなかつた「啐」から生まれた『ちぎれ雲』、『こんなこと』、『父-その死-』といつた數々の名隨筆を思ひ出す。『こんなこと』に含まれる「啐啄」といふ、父露伴と娘文、母文と娘玉の親子三代に亘る性敎育の「啐啄同時」の隨筆はなかんづく。
「颱風の目つついてをりぬ豫報官」と詠んだ作者のことだから、挙句の如月の殼をつゝいてゐる親鳥は作者といふことになるが、どうも『不思議な國のアリス』に出て來るやうな愛嬌たつぷりのドードーを聯想してしまふ。
■花粉症の嚔連発からぎっくり腰を招聘し、加えて坐骨神経痛を併発、寝釈迦のように腰がびだまって寝込んでいた無聊を慰める琵琶湖吟遊十三句連作であった。宗匠の逆手詠みに感謝。旧字旧仮名変換には「「正(旧)仮名遣ひ⇔現代(新)仮名遣い」相互変換~まるやるま君」を主に活用させていただいた。感謝。
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〔*〕【編集部・註】
記事中指摘されております「タイポ」は、編集部・西原天気による誤植です。訂正させていただくとともに、謹んでお詫び申し上げます。
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