2015年7月15日水曜日

●水曜日の一句〔冬野虹〕関悦史



関悦史








三乙女牛のゆくへをたづねけり  冬野虹


「牛のゆくへをたづね」るとなると、まず思い出されるのは十牛図である。

十牛図とは禅における悟りの道すじを比喩的に描きあらわしたもので、牛飼いの童子が牛に逃げられ、捜し歩くところから始まる連続した十枚の絵である。酪農家やカウボーイならいざ知らず、牛を捜すという状況は、ほかになかなかあるものではない。

「三乙女」の方も何か踏まえているものがあるのかもしれないが、さしあたり思いつくのはフランシス・ジャム『三人の乙女たち』くらいで、これは筆者は未見。もっとも強いて典拠を求めなくても、三人の「乙女」という材料は、それだけで充分にフィクショナルではある。

つまり「三乙女」も「牛のゆくへをたづね」るということも、どちらも虚構性、様式性の強い主題なのだが、この句の場合、その組み合わせ方に妙味があるのだ。

「三」は三脚が放置されても立っているごとく、ものごとの完成を表す数。「乙女」たちはそれだけで自足しており、探求の旅に出る動機は稀薄であろう。事態が動いている最中とは思えない静的な「けり」が句末に来ているところからも、さほど熾烈な探求心に裏付けられた行動とは思いがたい。

この神話的・泰西名画的な「三乙女」が「牛」を欲するという動きには、わざわざ処女性が明示されているがゆえに却って、かすかに不穏な要素も連想させるところがある。例えばギリシア神話では、ミノス王の妻パシパエは白い雄牛に恋し、牛頭人身のミノタウロスを産んでしまうのだ。そうした性的な連想への奔逸をも、悟りへの熾烈な探求ともども未然に、柔らかく防いでいるのが完成と安定の「三」なのである。

ギリシア神話と禅に同時につながってしまう駘蕩たる世界を平然と作りあげているあたりは、さながら西脇順三郎のようだが、西脇と共通しているのはそうした表面的なことよりも、「三乙女」の停止性と牛探求の進行性という相反する動きが、日常の再現性とは離れた次元で詩的肉感とでもいうべきものを保ちつつ、「永遠」と「さびしさ」に通じていることだろう。「三乙女」のおっとりとした牛探索行には、もちろん諧謔の要素もある。


四ッ谷龍編『冬野虹作品集成 第1巻 雪予報』(2015.4 書肆山田)所収。

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