2023年4月24日月曜日

●月曜日の一句〔三橋敏雄〕相子智恵



相子智恵






みづから遺る石斧石鏃しだらでん  三橋敏雄[1920(大正9)~2001(平成13)]

池田澄子著『三橋敏雄の百句』(2022.12 ふらんす堂)所収

三橋敏雄の第6句集『しだらでん』[1996(平成8)]の表題となった有名句を、百句のアンソロジーから引いた。

現代人の前に土中から現れた縄文・弥生時代の〈石斧(せきふ)〉や〈石鏃(せきぞく)〉は、みずから遺ったのだ、という句。〈しだらでん〉は「震動雷電(しんどうらいでん)」の転訛とされる。震動雷電とは「地震と地鳴りと雷と稲妻とが同時に起こったような騒々しさになること」と辞書にある。転じて〈しだらでん〉は、大雨や大風の様子を指す。

改めて、池田の深い読みに引き込まれる。少し引こう。
他者に頼むわけでなく他者に阿って遺してもらうわけでなく、遺るべきものが、みずからの価値に於いて遺る。(中略)俳句という儚いものも、遺るべきものは遺る、或いは、遺るべきものよ遺り現れよ、の思い。或いは祈り。我が作品への自負であったに違いない。
この〈遺るべきものよ遺り現れよ、の思い。或いは祈り。〉という言葉に驚く。遺ることは必然を超えた「祈り」なのだと。

あえて今に引き付けていえば、社会やテクノロジーの変化があまりにも加速度的で、次々に大きな変化や災厄が大風雨のように起こっているのに、流れが速すぎるがゆえに、表面的には凪いで無風に見えてしまうところもあるのではないか。表現の世界もそうかもしれない。

そんな今にあって掲句を声に出してみれば、呪文のような音の響きもあり、大風雨の世界の中に、小さいけれども錨のように重い石がずしんと現れて腹に宿る思いがする。その遺った石はただの自然石ではない。斧と矢じりという、人の手による仕事が遺っているのだ。俳句もそうあれと、祈るのである。

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