相子智恵
さびしくてさびしいと書く初日記 土井探花
句集『地球酔』(2023.11 現代俳句協会)所収
丸腰の句だなあ、と思う。丸腰の強さというのもあるのかもしれない、とも。
「初日記」という季語は、歳時記の例句を見るとわりと新しい季語のようだ。〈新しい日記帳の真っ白な第一ページを開くと、すがすがしい緊張感を覚える。(中略)年頭にあたっての所感やあらたなこころざしなどを書きつけることも多いだろう〉というのは、『角川俳句大歳時記』の山下知津子氏による解説で、季語の本意はこういうものだろう。
そういう意味では、掲句のもつ褻(ケ)の雰囲気は、初日記の本意を踏まえつつうまく外しているともいえるのだが、そういった作為をまったく感じさせない丸腰の素朴さが、胸に迫るのである。
ここにあるのは、日常の中の一日。思えば「初日記」なんて、私も俳句を始めなければ知らなかった言葉で、季語を知る前は、日記はただの日記であり、日常以外の何物でもなかった。もちろん新しいノートや日記を使う時はそれなりに緊張したし、きれいな文字や、恰好いい言葉で始めたいとは思ったけれど。
掲句は、のっぴきならない日常がまず先にあって、それでも作中主体が俳句に出会い、日記に「初」の一言がつくだけで異化が起きて、さびしい日常が詩になっていく……という人生における過程まで想像できてしまう。「初」がつくことで、読者も一層〈さびしくてさびしいと書く〉にヒリヒリとした痛みを感じるし、作中主体に共感する。
俳句に慣れ過ぎてしまうと、こういうプリミティブな感覚を忘れて、季語の本意・本情の側からだけで物事を捉えるようになったりもする。丸腰ゆえに、そんなことまで考えさせる句である。
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