2024年6月28日金曜日

●金曜日の川柳〔佐藤みさ子〕樋口由紀子



樋口由紀子





フランスへフランス人を見に行った

佐藤みさ子(さとう・みさこ)1943~

フランスに行ったときの実体験なのか。あるいはフランスに行った人の話を聞いたのだろうか。どちらにせよ「エッフェル塔にのぼった」「ルーブル美術館を見に行った」とはあきらかに違い、意表を突かれる。フランスに行けばフランス人を見るのはあたりまえだが、単刀直入に書かれることによって、本質を見抜かれたような気になり、どきりとする。

意図も企みもなさそうで、加えて、比喩もなく、凝った表現でもない。ただ、リアルに日常を捉えているだけだが、大きなズレを生み出し、圧倒的な存在感を引き起こす。そこに川柳のしたたかさと強靭さがある。「What's」(5号 2023年刊)収録。

2024年6月26日水曜日

●西鶴ざんまい #62 浅沼璞


西鶴ざんまい #62
 
浅沼璞
 
 
 勧進能の日数ふり行    打越
厚鬢の角を互に抜あひし
   前句
 浅草しのぶをとこ傾城
   付句(通算44句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)
 
【付句】二ノ折、裏八句目。 恋(前の恋句から六句去り)。をとこ傾城(けいせい)=男娼。
厚鬢の角⇒(生ゆ*)⇒浅き草⇒浅草(地名)
*「額の角のはゆる浮草」(『西鶴大句数』1677年)

【句意】(浅い草のような鬢の毛を気にしながら)江戸浅草で人目をしのぶ男娼たち。

【付け・転じ】打越・前句=雨天順延中の役者を描写した付け。前句・付句=役者を男娼に取り成しての転じ。

【自註】わたり奉公せし浪人男、浅草の片陰に身を隠し、竹の小細工、売手本(うりてほん)書て其の日を暮せしが、有る時は男振(をとこぶり)を作りて、並木茶屋、業平の宮あたりに立ちうかれ、屋敷おりの女に心をうつさせ、女につられて又の日も約束して、女次第に身をなすゆゑに、是を男傾城とぞ指さしける。男めづらしき奥勤めの女房衆、*おつぼねがしらにことはりて、「けふは親の日」とて、物いはねど合点のよき*中間に小袋さげさせ、裏の御門より出らるゝ、道すがら懐紙やらるゝこそ才覚なれ。
*おつぼねがしら(御局頭)=奥勤めの女房衆を仕切る老女。 *中間(ちゆうげん)=武家の召使。

【意訳】これまで転々と年季奉公した浪人が、浅草のほとりに隠れ住み、小さな竹細工、習字の手本など書いてその日暮らしをしていたが、ある時は身だしなみを男前に整え、並木町の茶屋、業平天神のお宮あたりを浮かれ歩き、(藪入りなどで)屋敷奉公休みの女の気をひき、その女の言うままに再会を約束し、相手の心次第に身を任せるが故に、これを男傾城と指をさした。男性を見るのも珍しい武家屋敷の奥勤めの女性たち*は、御局頭に届けて、「今日は親の命日(で墓参りに)」と、無口で勘のよい召使に鞄持ちをさせ、裏御門から出かけなさる。道すがら(口封じに)心づけの包みを渡されるのも気の利くことだ。
*『好色一代女』(1686年)巻四に似たエピソードあり。

【三工程】
(前句)厚鬢の角を互に抜あひし

  浪人の身のよき男振    〔見込〕
    ↓
  をんな次第にをとこ傾城 〔趣向〕
    ↓
  浅草しのぶをとこ傾城   〔句作〕

鬢の毛を抜きあう役者を浪人に見立てかえ〔見込〕、どうして浪人が身だしなみを整えているのかと問いながら、男傾城を描こうと思いを定め〔趣向〕、鬢の毛(浅き草)を浅草に言い掛けた〔句作〕。

 
そういえば前句は「男色の匂いがする」って言ってませんでしたか。
 
「言うたような気もするけど、もともと男傾城いうもんはな、浪人だけに両刀遣いやからな」
 
それを自註では女性客に特定しているってことですか。
 
「そや、自註で特定してな、で次の恋句でな……」

嗚呼、またネタバレ、誘導してしまいました。

2024年6月21日金曜日

●金曜日の川柳〔城水めぐみ〕樋口由紀子



樋口由紀子





詩人ではない右側がよく渇く

城水めぐみ(しろみず・めぐみ)

「詩人ではない」ので「右側がよく渇く」なのか。それとも「詩人ではない右側」が「よく渇く」なのか。それならば、「詩人である左側」が存在する。どちらにせよ、渇くなら全体であり、右とか左とかで区分できないはずだが、自分の感情の分布を認識し、自分の情報を開示している。

要は理屈や説明ではかたづかない無根拠なもの抱えて、片方の右側はよく渇くのだ。ぎこちなさと融通の利かなさが持ち分だろう。この句は句集の巻頭に置かれている。句集を開いてくれた人へのあいさつであり、自己表明だろう。『甘藍の芽』(2023年刊 港の人)所収。

2024年6月17日月曜日

●月曜日の一句〔篠原梵〕相子智恵



相子智恵






峰雲の暮れつつくづれ山つつむ  篠原 梵

岡田一実『篠原梵の百句』(2024.4 ふらんす堂)所収

句集『雨』(1953年)所収。このたび刊行された「百句シリーズ」より引いた。

昼間に大きく発達し、白く輝いていた積乱雲が、夕暮れになるにつれて、徐々に崩れていった。そして積乱雲がかかっていた山を、そのまま大きく包んでいくのである。ドライアイスのような雲に包まれた山は翳り、夕立にけぶるのだ。雲だけを見つめることで、時間と空間の大きさを描いた美しい一句だ。

句の選と鑑賞・解説の岡田一実は、掲句の鑑賞で以下のように述べる。
美学者の小田部胤久は『美学』においてカントの『判断力批判』を引きながら、「天才」の意義は自ら対象の観照にとどまりつつ、人々を世界に対しての無関心から目覚めさせる点にあるとした。観照にとどまる点においても、埋もれた新しい美を見出す点においても、梵のなかの「天才性」を感じさせる、叙景のみに留まった非-メッセージ性の高い一句である。
対象を客観的に描くことに留まりながら、そこから哲学にも通じる美を見出す。代表句の〈葉桜の中の無数の空さわぐ〉にも同じことが言えるのだ。篠原梵の句の面白さを改めて教えてもらった。

 

2024年6月14日金曜日

●金曜日の川柳〔千春〕樋口由紀子



樋口由紀子





セーターを逆から読むと銀閣寺

千春(ちはる)

「セーター」は逆から読んでも決して「銀閣寺」にはならない。あまりに自明なので、かえって、何故?と思ってしまう。Tシャツに「銀閣寺」と印字されているのはありそうだが、「セーター」と「銀閣寺」に共通するイメージもなく、その関係性も逆から読む必要性もまったくわからない。しかし、きっぱりと言い切っている。煙に巻かれたような一句である。

別に驚かそうとしているのでもなく、理由もないだろう。しいて言えば直観。もし、セーターを逆から読んで銀閣寺にならば、得もいえぬ高揚感をもたらしてくれる。だから、自分の中のもう一人がそう読んでしまうのかもしれない。「セーター」と「銀閣寺」という具体的なものの距離を意外な方法で独自に大胆に近づけている。『こころ』(2024年刊 港の人)所収。

2024年6月12日水曜日

●西鶴ざんまい #61 浅沼璞


西鶴ざんまい #61
 
浅沼璞
 
 
神鳴や世の費なる落所   打越
 勧進能の日数ふり行   前句
厚鬢の角を互に抜あひし  付句(通算43句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)
 
【付句】二ノ折、裏七句目。雑。 厚鬢(あつびん)=月代を狭く、鬢を厚くとった神職等の髪型。
角(すみ)=額際。   歌舞伎用語案内 (https://enmokudb.kabuki.ne.jp/phraseology/phraseology_category/kabuki-no-katsura/kamigata-no-kisochishiki/)

【句意】厚鬢の額際を互いに抜きあった。

【付け・転じ】打越・前句=水神鳴に雨天順延の勧進能を付けた。前句・付句=雨天順延中の役者の描写で転じた。

【自註】奈良座*は皆神役(じんやく)の者、何(いづ)かたへもやとはれて、*地うたひ・はやしかたを勤めける、其の風俗隠れもなし。極めて厚鬢の男どもなり。雨の日は、楽屋入もせず、隙(ひま)成るまゝに、太夫かたより馳走の宿々にして、毛貫(けぬき)を慰めとするもをかし。
*奈良座=春日明神の下級神職の奉仕する猿楽座。
*地うたひ・はやしかた=詞章を謡う人・伴奏する人。

【意訳】奈良座はみな神職の者で、どこへでも雇われて行き、地謡・囃し方の役をつとめる。彼らの風俗は世間に知られて隠れもない。とても厚鬢の男たちである。雨の日は、楽屋にも入らず、暇にまかせ、勧進元から給せられた宿屋宿屋で、毛抜きを慰みにするのも面白い。

【三工程】
(前句)勧進能の日数ふり行

楽屋入り致さぬ宿のつれづれに 〔見込〕
  ↓
  厚鬢の角の互に気になりて   〔趣向〕
    ↓
   厚鬢の角を互に抜あひし    〔句作〕

雨の日の役者に視点を合わせ〔見込〕、どのように過ごしているかと問いながら、身だしなみに思いを定め〔趣向〕、厚鬢の額の両角を互いに抜きあう様子を詠んだ〔句作〕。

 
厚鬢は上品だけど、地味で野暮な髪型って言われてますね。
 
「社人は烏帽子を被るから厚鬢なんや」
 
なるほど。けど、神職が芸能を副業としてるのは意外でした。
 
「神職いうてもな、春日の禰宜役者は下級の者らで仰山おったんやで」
 
その者たちが額際の毛を抜きあっている……という。
 
「なんや男色の匂いがするやろ」
 
恋の呼び出し、ですか。
 
「また引っかかりよった。ネタバレ禁止、言うてたやろ」
 
あ、そうでした。

2024年6月10日月曜日

●月曜日の一句〔阪西敦子〕相子智恵



相子智恵






金魚揺れべつの金魚の現れし  阪西敦子

句集『金魚』(2024.3 ふらんす堂)所収

掲句、初めて読んだのは何年も前のことだが、その時に一発で覚えてしまった好きな句だ。今回読み直してみて、やはり名句なのではないかと思う。

尾が大きく広がった丸っこい金魚を想像する。尾ひれをふわっと揺らして方向を変えた瞬間、尾ひれの後ろにいて見えなかった別の金魚が姿を現す。何でもない瞬間だけれど、ハッとする美しさがある。金魚の美しい色でしか表せない世界だ。

美しさだけでなく、どこか無常観があると感じるのは私だけだろうか。鑑賞のためだけに人の手で改良され、もともと自然界には存在せず、これからも自然界に存在することがない金魚。その自然と切り離された存在がもつ浮遊感、根無し草な感じが、金魚の揺らぎと、前にいた金魚と何の関係もなく、ポッと目の中に現れる別の金魚……という場面にもつながっているような気がするのだ。

降ろさるるとき静かなり大熊手

熱燗のところどころを笑ひけり

ラガーらの目に一瞬の空戻る

秋祭ある沿線やすこし飲む

本書は著者の約40年の日常が詰まった大冊で、読みどころはたくさんある。景色の捉え方はどちらかといえば明るいほうだが、表題句をはじめとして、上に挙げたようなきらめいて見える物や、喧騒の中に感じる一抹の静けさといった、淡い情感も心に残った。
 

2024年6月3日月曜日

●月曜日の一句〔黒岩徳将〕西原天気



西原天気

※相子智恵さんオヤスミにつき代打。




蜘蛛の巣の中のはちきれさうな雲  黒岩徳将

つまりは、蜘蛛の巣越しの積乱雲。これ、12音。散文的には12音で済む事象が、17音の俳句になる。音数的な余分・余裕には、《はちきれさう》という観察者の認識というか印象が盛り込まれた。ここに「気分」が出る。夏の気分。その日そのときの気分。

《の中に》とうやや強引な措辞(中じゃないしね)は、現実の遠近を無効にして、雲が蜘蛛の巣にとらわれて、むくむくと蜘蛛の巣からはみ出そうな勢い。ここにも「気分」がある。

蜘蛛から雲へ、同音異義の遊びは、この句の主眼ではないが、それも愉しい。読者が作者と軽く微笑み合える感じ。

掲句は黒岩徳将句集『渦』(2024年5月/港の人)より。

2024年6月1日土曜日

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