西鶴ざんまい #83
浅沼璞
初祖達广問へど答へぬ座禅堂 打越
今胸の花ひらく唐蓮 前句
蟬に成る虫うごき出し薄衣 付句(通算65句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)
【付句】三ノ折・裏1句目。 裏移り。 夏=蟬 虫=ここでは蛹のこと。 薄衣(うすごろも)=薄く透ける蟬の羽を衣に譬えた言い方。蟬の羽衣は夏衣のこと。「ひとへなる蟬の羽衣夏はなほうすしといへどあつくぞありける」(後拾遺・夏)
【句意】蟬の幼虫が動き出し、薄い羽衣を現す。
【付け・転じ】前句の「胸の花ひらく」という悟りの形を蟬の脱皮・羽化に取成した。
【自註】つら/\世のありさまを見るに、池水(いけみづ)にすみし*屋どりむしといへる物、おのが衣を時節とぬぎて蟬になれる。此の**生を替へし所は、其のむしも胸のひらくに同じ。蟬の衣をぬぐは、秋になれり【諸註】。***屋どり虫、蟬になる時は夏なれば、是を****荷葉の付け合に出だしぬ。此の句は*****意味計也。
*屋どりむし=宿り虫。幼虫のことで「池水」は「地中」の誤り。 **生(しやう)を替へし所=蛹から成虫にステージが替わるところ。 ***屋どり虫、蟬になる時=原文は「屋とる虫蟬なる時」(定本全集・日本古典読本Ⅸ) ****荷葉(かえう)=蓮の葉。ここでは蓮そのもののこと。 *****意味計(ばかり)=内容主義の心付・心行(こころゆき)のみの付け。よって縁語による詞付は皆無という意。
【諸註】蟬の衣をぬぐは、秋になれり=「蟬が衣を脱ぐのは秋の季節に属するものである」(『譯註 西鶴全集』藤井作・訳)。定本全集や新編日本古典文学全集の語註でも、おなじく「蟬が衣を脱ぐ」と解し、「連俳ともに夏で秋は誤り」とする。愚生もその通説に従って本稿の下書きをしたが、以下の「若之氏メール」により改稿した。
【若之氏メール】……「蟬の衣を脱ぐは」の「の」を主格の「の」だとすると、後ろの文とあまりにも辻褄が合わないように思います。調べてみると、「蟬の衣(きぬ)」に「蟬の羽衣=薄衣」の意味があるようなので、「(人間が)薄衣を脱ぐのは秋になってからである」ということではないでしょうか。人間が薄衣を脱ぐのは秋だけど、蟬が薄衣を脱ぐのは夏だから、その脱ぐさまを蓮と同季の付け合いとして出したのだ、というような趣旨ではないかと。
【考察】諸註の解は、そこまでのコンテクストが蟬(蛹)を主語としており、その流れで「蟬が衣を脱ぐ」と解したのであろう。季の誤りは「池水」に同じく西鶴によくある誤謬ととらえたまでであろう。しかし若之氏の解における主語の省略や変化もまた西鶴によく見られる傾向である。しかも若之氏の解は、後続のコンテクストに配慮してのものである。よってここでは若之氏説を参照のうえ、以下の意訳を試みた。
【意訳】よくよく世の有り様をみると、池の水に棲む宿り虫というものは、時節がくれば(自然と)自分の外皮をぬいで蟬になる。この蛹から成虫に替わるところは、(前句の)胸がひらくさまと同じである。(一般に人が)夏衣を脱ぐのは秋になってからである。(けれど)宿り虫が蟬になるときは夏なので、これを蓮と同季の付合として出した。この句は意味内容だけで付けてある。
【三工程】
(前句)今胸の花ひらく唐蓮
宿り虫生を替ふべき時節にて 〔見込〕
↓
蟬に成る虫うごき出す時節にて 〔趣向〕
↓
蟬に成る虫うごき出し薄衣 〔句作〕
前句の胸開く悟りのさまを脱皮と見なし〔見込〕、〈どのような虫か〉と問うて、蓮と同季(夏)の蟬の羽化とし〔趣向〕、「薄衣」という比喩でまとめた〔句作〕。
●
0 件のコメント:
コメントを投稿