
湊圭伍
どの糸からもマリオネットは血を貰う 北川絢一郎
操り人形が活き活きと動いているとして、その活力は人形をぶら下げた糸を通じて操っている人物から来ている、というのは当たり前である。ただその活力を「血」と表現し、「血を貰う」として人形とそれを操るものの関係を示すと、急に状況が不穏に見えてくる。「どの糸からも」に示された人形の貪欲さも、この句の怖さを増幅している。
人形は生を持たないモノであり、操るひとは意志を持つ生き物である。この割り切りは分かりやすい。また、人形とそれを見事に操るひとは芸として一体で、共に私たちの視線に向けて生きてある。これも心地よい把握だ。ただ「マリオネット(操り人形)」が動くのを見るとき、上に張り詰めたり緩んだりして垂れている糸、人形に集中しているときは背景にぼんやりとしている操る人の影が見えている。この背後の影や、糸の捉えがたい動きが、私たちの無意識に働きかけている。
「マリオネットは血を貰」っているとしたら、その「血」は操り手のみから来ているものだろうか。人形に流れてゆく血はただその動きのみにきれいに置き換わるものだろうか。また、血を際限なく要求する「マリオネット」を、私たちは操り人形芸という気味の悪さはあるがあくまで優しい演芸以外にもあちこちで見る気がするのだが、どうだろうか。
北川絢一郎『泰山木』(私家版、1995年)より。
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