2018年6月29日金曜日

●金曜日の川柳〔猫田千恵子 〕樋口由紀子



樋口由紀子






阿と吽の間が離れすぎている

猫田千恵子 (ねこた・ちえこ) 1962~

寺院山門の仁王や狛犬など一対で存在する像の阿吽がある。阿吽の呼吸、阿吽の仲などと言われている。一見、阿吽像を見ての感想のようだが、「離れすぎている」を捉えることで、転じて人生の実感にうまく繋げている。

「離れすぎている」と見たのは作者の意見だが、川柳的な視点である。だれもが思わないというほどでもないが、あまり気にとめないで見過してしまうことを、ほとんど人があたりまえに見えていたものをわざわざ「離れすぎている」と書きとめることによって共感を獲得している。

〈半身は太平洋を向いたまま〉〈図書館は濡れないように建っている〉〈脱いでみるなんだ小さな蟻だった〉。『川柳作家ベストコレクション 猫田千恵子』(2018年刊 新葉館出版)所収。

2018年6月26日火曜日

〔ためしがき〕読むこと、途上 福田若之

〔ためしがき〕
読むこと、途上

福田若之

T・S・エリオットの「J・アルフレッド・プルーフロックの恋歌」に次の一節がある。
Streets that follow like a tedious argument
Of insidious intent  
To lead you to an overwhelming question....
Oh, do not ask, “What is it?”
Let us go and make our visit.
試みに訳してみよう。
街は続く 退屈な議論のように
隠された意図についての
君をとてもかなわない問いへと誘おうとする議論のように……。
おい、訊くなよ、「それは何」なんて。
僕たちは行こう、そして訪ねよう。
こんな具合だろうか。「それは何?」すなわち「とは何か」の問いを発することが強く戒められている。隠された意図を探る退屈な議論に引きずられてはいけない。そのさきに待っているのは、とてもかなわない問いでしかない。

「とは何か」、これは旅人を殺す問いの形式だ。旅人を殺すためには、「とは何か」という問いに彼らの足を引き留めさせるだけでよい。行かぬ者はもはや旅人ではないのだから。かくして「とは何か」の問いは足を狙う。ピーキオン山のスフィンクスはこのことをよく心得ていた。彼女の問いは、じつに足を狙うまなざしそのものだ。四本足、二本足、三本足――彼女の問いは、人間の足をじっと見ている。そして、「とは何か」。聡明なオイディプスでさえ、この問いに答えてしまったがゆえに旅人であることを失う。彼はそのままテーバイの王になってしまうのだ。オイディプスの名は「腫れた足」を意味する。

読みを彷徨させるために、もはや「とは何か」と問わないこと。そうではなく、移ろいに身を任せること――「僕たちは行こう、そして訪ねよう」。エリオットの詩は、そのことへと読み手を誘う。

ロラン・バルトは「文学はどこへ/あるいはどこかへ行くのか?」と題されたモーリス・ナドーとの対話のなかでこんなことを言っている――「読者を潜勢的あるいは潜在的な作家にすることに成功する日が来れば、あらゆる読解可能性についての問題は消えてなくなるだろう。見たところ読みえないテクストを読むときにも、そのエクリチュールの動きのなかでなら、そのテクストのことがとてもよくわかるものだ」。読み手としてエクリチュールの動きに身を置くこと。エリオットの一節は、おそらくこのことに通じている。あるいは、ジャック・ケルアックの『オン・ザ・ロード』のことを思う。

2017/6/22

2018年6月25日月曜日

●月曜日の一句〔菅美緒〕相子智恵



相子智恵






今年竹黄泉より水を吸ひ上げて  菅美緒

シリーズ自句自解II ベスト100『菅美緒』(ふらんす堂 2018.6)所収

筍の状態から、たちまち成長する今年竹。生命力の塊のようなその青々とした今年竹の成長が〈黄泉より水を吸ひ上げ〉た結果であるということに驚く。竹林は寺社の庭園や墓所に植えられているイメージもあり、黄泉の国という飛躍も、言われてみれば納得だ。

死者からもパワーを吸い取る恐るべき生命力。それは一瞬、気味悪くもあるのだが、死者から続くこの命と見れば貴くもあり、普遍的である。

掲句は句集『左京』(ふらんす堂 2016刊)初出。

2018年6月24日日曜日

〔週末俳句〕写真 上田信治

〔週末俳句〕
写真

上田信治


鹿児島から入って、宮崎に泊まり、大分に泊まり、松山に泊まり、福山に泊まるという旅行をした。全部一泊ずつ。この動線のながーい旅行を計画したのは妻だ。

鹿児島で思ったこと。
西郷どんのペーパークラフトが、あちこちに飾られていて、それが、柳原良平のアンクルトリスとか赤福の旅びとを連想させる造形なんだけど、あのアメリカっぽい造形の原型はなんだろう。

宮崎で…
シーガイアに泊まったら、ラグビー日本代表が合宿をしていた。大浴場にそれらしき人たちが入ってきたのだけれど、ふつうに予想できる範囲の、いいガタイをしていた。

大分で…
漫研の後輩がオーナーシェフのレストランへ行く。彼女のダンナさん(彼も漫研)が大分出身で、こっちで店をはじめた。彼から、むかし、大分県人が宮崎県へ行く、ということが、どれほど考えられないことだったか、という話を聞く。

愛媛で…
夕日のきれいな駅で有名な予讃線下灘駅の下を、ちょうど日没のころに通りがかる。駅で夕日を眺める人たちを見ることが出来て、満足。

松山で、ご飯の店をさがして大街道へ。ここが、あの!と思う。

福山で…
かつて常石造船という会社の「迎賓館」だったというホテルに泊まった。そんなふうに、日本の会社にお金があった時代があったんだな、と思ったけれど、そのホテルはまだ常石の所有なのだという。翌日、そもそも目的地であったお寺(神勝寺)に行ったのだけれど、その寺も常石の寄進によって建ったのだそうで、はあ、もう領主だなと。

妻はどこへ行っても写真を撮る人で、自分は、手持ちぶさたなので、写真を撮っている妻をうしろから写真に撮る。

「写真を撮る妻のうしろ姿」が、写真フォルダに溜まっていって、だんだんライフワークのようになってきている。


2018年6月23日土曜日

●栞



梶の葉を朗詠集の栞かな  蕪村

ががんぼの一肢が栞卒業す  斎藤慎爾

栞も指も挟み夕立見てをりぬ  中山奈々


〔*〕『セネレッラ』第16号(2018年6月20日)より

過去記事「栞」
http://hw02.blogspot.com/2017/08/blog-post_31.html