2019年9月27日金曜日

●金曜日の川柳〔延原句沙彌〕樋口由紀子



樋口由紀子






噴水のくにゃくにゃくにゃととまりかけ

延原句沙彌 (のぶはら・くしゃみ) 1897~1959

噴水を見るたびに思い出す川柳である。いきおいのあるときの噴水はそれはそれで、まるで天下を取ったように、他を圧するものがある。自信満々、イケイケどんどん、何も恐れるものないという態度に満ちあふれている。しかし、それが一旦、水が止まりかけたときのあのなんともみじめな姿。過っての栄光のかけらなどみじんも感じさせないくらいのなさけなさである。とても同じ噴水とは思えない。その落差はなんとも可笑しい。それをうまくとらえている。

なんといっても「くにゃくにゃくにゃ」がかわいい。本当にうまく表現したものである。噴水が普通に上がっているときでも、ああ、この噴水も止まるときは「くにゃくにゃくにゃ」とかわいくなるんだろうなと想像して、ニタニタしてしまう。読み手にあらためて大いなる了解を与える「くにゃくにゃくにゃ」である。

2019年9月25日水曜日

●シーツ

シーツ

初夏の白きシーツを泳ぎ切る  仁平勝

星図の暗さのシーツに溶けるごと眠る  高野ムツオ

菊の象の腋毛アパートの暗いシーツ  大沼正明

夢の川シーツのしわの深い流れ  八上桐子〔*〕


〔*〕『蕪のなかの夜に』(フクロウ会議/2019年8月31日)

アンジェイ・ワイダ『灰とダイヤモンド』1958年

2019年9月23日月曜日

●月曜日の一句〔村上喜代子〕相子智恵



相子智恵







連結車いつしか二輌秋深む  村上喜代子

句集『軌道』(KADOKAWA 2019.7)所載

〈いつしか〉だから、車輌の連結が一度ではなく段階的に数回切り離されたような感じがする。気づいたらいつの間にか二輌になっていた、というような。自分はそのうちの一輌に乗っていると読みたい。

乗る人が減っていき、主要駅(とは言っても大きくはないように思われる)でまた車輌の切り離しが行われた。〈二輌〉という連結車輛の少なさと〈秋深む〉によって、最後は単線の寂しい路線へこの電車が進んでいる感じがする。

〈秋深む〉で具体的な場所を見せていないので、読者が思い出したり想像したりする風景は、秋の山や寂しい海など一人ひとり違う。ただ〈秋深む〉の寂寥感は皆に共通のもの。こうした心理的な季語によって、景のぎりぎりのところを限定しないからこそ、個々の懐かしさと照らし合わせて、共感を呼ぶ句となるのだろう。

2019年9月21日土曜日

●土曜日の読書〔月をつくる〕小津夜景



小津夜景








月をつくる

中秋だけど、とくになんてこともない。と思っていたら、夫がライ麦の餅をつくってくれるという。

ラッキー。ラッキー。そうやって浮かれて長椅子でごろごろしていたら、台所から焼きパンのような匂いがただよってきた。

あれ? これ焼きパン? もしかしてあの人、お餅のつくりかたを知らない? そんな疑いが脳裏をよぎった。が、下手に口出しすると機嫌をそこねて何にも食べられないかもしれない。ここはじっと黙って待つしかないだろう。

作業開始から約一時間後、ついに餅がテーブルに運ばれた。全粒粉でこしらえた凹凸のある餅が、薄い月餅のかたちに8個かさねられ、朱色の花形盆に盛り付けてある。ひなびた情緒がいかにも十五夜風だ。こっそり胸を撫でおろして、いただきますとひとつ齧る。ふつうのお餅よりも軽い嚙みごたえで、ブルターニュの甘い塩の味が口中にじわりと湧き出てきた。おいしい。

「おいしいよ。ありがとう」
「どういたしまして」
「フライパンで焙った? 表面がふっくら割れてる」
「焼き目つけてみた。いいでしょ」
「うん。十五夜のお月さまっぽくはないけどね」
「なんで。クレーターじゃん。リアルじゃん。リアリティ出したんだよ」

なるほどリアルか。そういわれると、たしかに餅の焼き目が月のクレーターに見えそうな気分になってきた。あくまで気分だが。しかし、ということは、この餅の珍妙な色合いもあえてのしわざなのか。

「あのさ。この鹿皮みたいな色は」
「鹿皮って何? これは月の色でしょ」

やはりわざとだったのだ。ふと大昔の洞穴に残っている原始人の絵を思い出す。あれは本当にリアルでおどろいてしまうが、いまわたしの手の中にある月も、きっとものをよく見る人の月なのだろう。夫は星が好きで、よく天体を観察しているから。
鹿を写生してかいたが鹿にみえるだろうか。太閤さんがある歌会に出て、「奥山にもみぢふみわけ鳴く蛍」とかいたら、細川幽斎が「しかとは見えぬ杣(そま)のともしび」と附けた。
この画も鹿と見てほしい。
私は動物園で写生してきた。「あなたは奈良で毎月ゆくのに動物園などに行かなくてもよいでしょう」と云われた。奈良公園の鹿は紙を見ると食べに来る。スケッチブックなど見たら、そばへよってきて写生どころではない。檻の中にいる鹿の方がよい。(中川一政『画にもかけない』講談社文芸文庫)

「今夜、何時に月を見に行く?」
「あ。プーアル茶入れてたの忘れてた」

そう言うと、夫は立ち上がり、台所へ戻った。手をついたとき、テーブルの上の桔梗がゆれた。わたしは具象と抽象を兼ね備えたリアルな月を、また一口嚙んだ。




2019年9月19日木曜日

●木曜日の談林〔宗因〕浅沼璞



浅沼璞








 跡しら浪となりし幽霊      宗因(前句)
世の中は何にたとへんなむあみだ   仝(付句)
『宗因千句』(寛文13年・1673)

前句は謡曲取りで、〈怨霊は、又引く汐に、揺られ流れて、跡白波とぞなりにける〉という『船弁慶』からのサンプリング。

「見るべき程の事は見つ」と壇ノ浦で入水した勇将・平知盛の霊を描き、〈白波〉と「知らない」が掛詞になっているのは謡曲ゆずり。

「白波がたち、行方の知れなくなった知盛の幽霊よ」といった感じ。



付句は、〈世の中を何にたとへん朝ぼらけ漕ぎゆく舟のあとの白波〉(拾遺集・沙弥満誓)の本歌取り。

前句〈跡しら浪〉→付句〈世の中は何にたとへん〉
前句〈幽霊〉→付句〈なむあみだ〉
という二つの連想経路をカットアップ、そのイメージギャップで笑いを誘発する。

「世の中を何にたとえたらいいだろう……南無阿弥陀仏」といった感じ。

(本歌の、出家・満誓に対する念仏への連想もあろう)



この付合を集英社版「古典俳文学体系3」で初めて読んだとき、すぐに次の句を思いだした。
明易や花鳥諷詠南無阿弥陀      虚子
いわゆる「句日記」――昭和29年7月19日、千葉県・神野寺での連泊稽古会で詠まれた作。

早朝の勤行への挨拶だろうが、句の仕立てはサンプリング&カットアップの宗因流といっていい。

これは仁平勝氏が『虚子の近代』(弘栄堂書店、1989年)で指摘済みだけれど、収録句に日付を記すという「句日記」の形式を〈連句に代わるフォルム〉として捉えかえすことだってできるのだ。

子規に松永貞徳のような勤勉さを感じる一方、虚子に宗因的な奔放さを感じてしまうのは、きわめて俳諧的なのかもしれない。