2020年3月10日火曜日

●象〔続〕

象〔続〕


三月や子供はみんな象が好き  雪我狂流

象と来て象だけ帰る雨季の寺  中田美子

月光の象番にならぬかといふ  飯島晴子

人間を信じて冬を静かな象  小久保佳世子


過去記事「象」
http://hw02.blogspot.jp/2011/01/blog-post_14.html

2020年3月9日月曜日

●月曜日の一句〔山口昭男〕相子智恵



相子智恵







山越えて来しくれなゐの桜鯛  山口昭男

『シリーズ自句自解2 ベスト100 山口昭男』(ふらんす堂 2019.12)所載

芽吹きの山の黄緑色に、鮮やかな〈くれなゐの桜鯛〉が映えて美しい。どこにも書かれてはいないが、山のところどころには山桜も咲いているような気がした。黄緑色の春の山と〈くれなゐ〉の色の対比はもちろん、桜鯛の艶っぽい〈くれなゐ〉と山桜の清らかな白さも照らしあっているのではないか。それもこれも〈桜鯛〉という名前の妙である。何だか海の精と山の精が出合ったような神々しさがある。

海のない県で育った私にとって、魚はまさに山を越えてやって来るものだった。生魚も買って食べてはいたけれど、塩漬のイカや鮭のような保存がきく魚介類の方が馴染み深かった。こんなに新鮮な〈くれなゐの桜鯛〉は、山里ではとびきりのごちそうであろう。

掲句、元は句集『讀本』(ふらんす堂 2011.6)に収められた句だが、自句自解の企画本より引いた。自解には〈ものをよく見て作ることを信条としてきた。あるときから、ものを見ないでも俳句を作らなければと考えるようになった。掲出句の桜鯛は直接見たことはない〉とある。見事なイメージの一句である。

2020年3月6日金曜日

●金曜日の川柳〔前田一石〕樋口由紀子



樋口由紀子






人間の姿で立っているのだが

前田一石(まえだ・いっせき)1939~

ふと口に出た言葉のような一句である。自分の姿を鏡かなにかで見たのだろうか。確かに人間の姿で立っている。しかし、本当に人間といえるのか。人間とは何なのか、自分とは何者なのかと自問している。

「いる」と存在し、「のだが」と疑っている。「のだが」がクセモノで、だからどうなのだとは一言も言っていない。言葉のはたらきに対する認識で人生を捉えている。

こんなことを思うのは私だけではなかった。だから、そのつぶやきのような一句がすっと心に入り、句に呼びかけられる。さてさて、どうなのか。『現代川柳の精鋭たち』(2000年刊 北宋社)所収。

2020年3月4日水曜日

【名前はないけど、いる生き物】 最近の「なんか」日記 宮﨑玲奈

【名前はないけど、いる生き物】
最近の「なんか」日記

宮﨑玲奈


「引き伸ばし」
2020.03.02(火)

なんだか気持ちが乗らず送るのを引き伸ばしていたから今日は火曜日だ。身の回りで、演劇の上演の中止や、劇場の閉鎖が起こっている。そんな時に、こんなくだらないことを書いてて、書き終わってて、送っていいのか、みたいな気持ちが少し湧いてしまっていた。今日は火曜日で、見返したら、やっぱり送ってみようという気になったので、この文章を送った。

演劇は、観客がいて、はじめて成り立つ。最近、わたしは、新作の戯曲を書いていて、頭を悩ませたとき、他の人の戯曲を読み返していると、人のまなざしや、見られていることを、どのように考えるか、ということが含まれているなと改めて思ったりした。すぐれた作品ほど、その仕掛けにはっとさせられるような、そんな気がした。直接的でなくても、まなざしへの態度は、含まれている。

演劇には、観客が必要だ。ささやかに、あたりまえに、文化や芸術が、生活の中にあってほしいと思う。わたしたちは、生きていて、簡単に、言葉を発することができてしまうし、その言葉たちには、常に暴力性があって、同時に優しさも含まれているだろう。

できる限り、思考して、で、それぞれが、それぞれの方法で、存在していこう、って言いたい。そうしている人たちを、応援したい。でも、やっぱり、誰かに言われた言葉に従うしかない時もあるかもしれないけど、それでも、きみが思考して辿ったこれまでは、ちゃんと存在していくし、存在しているよ、って言いたい。だれが見ているかわからないけど、わたしは、言いたかった。

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「痛みについて」
2020.02.29(土)

どうでもいい話は多分どうでもよくない、そこがいいんじゃないかな、と思ったり、思わなかったりする。わたしは、いつだって、なにかを決めるのが苦手で、どっちだろうって、ずっと、その場所を、行ったり、来たり、している。

最近、わからないことに、チェック柄をなぜプラスチックに印刷するのか、ということがある。メガネのつるに印刷されているチェック柄を見ていてわからなくなった。チェックって布に印刷するものではないのか、プラスチックとチェックの相性ですばらしいと思った製品を見たことがまだない。そう、例えば、昭和レトロなちょっとダサかわいい感じを狙った、プラスチックのチェック柄だとわかる。あえて、ダサくなってかわいいというライン。でも、メガネのフレームの裏のチェック柄は、かっこいいとか、おしゃれを想定しているチェック柄で、でも、なのに、そんなにかっこよくない。やっぱり、チェック柄のスカートだとか、靴だとか、かばんだとか、チェックは布なのではないだろうか。チェックをプラスチックに印刷しはじめたのは、どうしてだろうか。特にメガネ。メガネのチェック柄がどうしても理解できないでいる。あの、メガネの、あまり見えない側にこっそり印刷されている、隠れチェック。あの隠れプラスチックチェック。でも、隠れプラスチックチェックって言葉はちょっとかっこいいかもしれないと今思い始めたけど、やっぱり、なぜ、プラスチックにチェック柄を印刷するのだろうか、わからない。

というようなことを、親知らずを疑いはじめて3日、痛みを堪えられなくなる頃、気を紛らわせるために、考えていた。痛みを騙し騙し生活してきたが、どうにも耐えられなくなって近所の歯科医院に行った。騙し騙しというのは、気づかないふりをするということだ。耐えられる痛みなのではないかと、その痛みを疑うことだ。3日ほどして、痛みが疑えなくなったので、観念をして、病院に行った。基本的にわたしは、病院というものが嫌いだ。みんな、そうなのかもしれないけど、インフルエンザの予防接種の注射も小学生までは大泣きをしていた。「うーん、噛み合う親知らずもないので、抜いちゃいましょう」と言われ、来週の金曜日に親知らずを抜くことが決まる。今は痛み止めの薬で、これまた、騙し騙しやっている状態だ。初めての麻酔、初めての親知らずの抜歯、ものすごく不安だ。

やっぱり痛みを騙せないでいるから、痛みのこと、それ自体を考えようとしている。10段階で考えると、この痛みはどのレベルなんだろう。まだ経験をしたことはないけど、出産の痛みが10だと仮定する、昨年の秋に経験したアニサキスの激痛は8だった。救急車にはじめて乗った。寝る前に3ぐらいの痛みが、3時頃に急に8に変わった。とうとう救急車がやって来て、救急隊員にどんな風に痛いですか、と言われる、難問すぎる。痛いのに、わからない。キリキリ痛みますか?と聞かれても、キリキリとは?って思ってしまう。刺すように痛みますか、も、刺すように痛むのがどんな状態なのかわからない。まさに痛い時に、その痛みを言葉で表現するのは、すごくむずかしい。痛いです!多分、キリキリです!キリキリ、なのかなぁ、多分キリキリです、みたいな答え方をした気がする。押さえつけられている感じです、とかっても言った気がする。痛みを確認しながら、頭の中に?マークが浮かんでいる、で、こんな痛みかも、って思って言う。痛みが伝わりづらい例をあげる時、よく、のどのイガイガのつらさのことを言う。のどのイガイガのつらさは、それが表出されない、その痛みの伝わりづらさにあるだろう。どんなに、のどがイガイガしていても、そのイガイガは「イガイガ」としてしか伝わることがない。イガイガは共有できない。

親知らずの抜歯をわたしは5で考えている。じわじわ痛いタイプだと。抜いたら報告します。(あなたの親知らず体験もよかったら聞かせてください。)今日バイト先のサイトウさんに、親知らず抜くの?痛くない痛くないと言われて少し安心した。今日もくだらないことを考えながら、一日が終わっていくのでしたということを書こうとしたけど、今日見たジャルジャルのネタの序盤の福徳のありようが、くだらないことを考えている時の自分に重なって見えてしまって、少し落ち込む。くだらなさを考えようとすることも、エゴみたいになっちゃうことだってあるのかなって思って。
 
 
あ、そういえば、生駒さんと柳元くんがやっていたやつに投句しようと思って、しそびれました。というわけでここにこっそり載せておきます。

ぱらぼらに雲のかかって目の前は
春はもう歩道の人なみが早い
皿洗う昼間でなんとなくの春
春の雲軒に干されるテディベア

2020年3月2日月曜日

●月曜日の一句〔及川真梨子〕相子智恵



相子智恵







春風が暗渠を出でて黄昏へ  及川真梨子

「むじな 2019」(むじな発行所 2019.11)所載

掲句の〈春風〉からは、春が来た喜びのようなものは全く感じないのだけれど、暗渠を出た水の匂いがする生ぬるい風には、春ならではの「気だるさ」があって春風らしいと思った。これが夏なら匂いが強すぎるし、秋なら寂しすぎる。冬なら黄昏はあっという間に過ぎ去って、余韻を書き留める暇もないだろう。

〈暗渠を出でて黄昏へ〉という薄暗さから薄暗さへの展開によって、作者のアンニュイな心は十分に伝わってくる。それでも春の黄昏は、そのまま時間が進めば艶と華やぎのある「春の宵」になるのであって、暗渠の出口で川を眺めながらぬるい春風を感じている無為な時間は、枯れた風情ではなく、生きていることの艶につながっている。青春のアンニュイさのようなものを感じるのである。