2010年9月13日月曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔34〕二百十日・颱風・野分・秋出水〔下〕

ホトトギス雑詠選抄〔34〕
秋の部(九月)二百十日・颱風・野分・秋出水〔下〕

猫髭 (文・写真)


山川に高浪も見し野分かな 吉野 原石鼎 大正元年

吹かれ来し野分の蜂にさゝれたり 鎌倉 星野立子 昭和6年

秋出水家を榎につなぎけり 丹波 西山泊雲 大正5年

今回初めて日本に上陸した颱風9号は、静岡で熱帯性低気圧に変わったので、那珂湊では、颱風というよりも降ったり止んだりの断続的な暴風雨という感じで、翌日は風だけが残ったので、野分という「秋の疾風」という気配だった。野分は昔の颱風だが、昔から和歌に俳諧に多く詠まれてきたので、雅語という感じが強い。『ホトトギス雑詠選集』の颱風関連の季題では、「野分」は35句と例句も多い。石鼎の句は、その巻頭の句であり、これは石鼎の「ホトトギス」初投句中の一句で、大正元年12月号に掲載されている。

鹿垣(ししがき)の門鎖し居る男かな
空山(くうざん)へ板一枚を荻の橋
頂上や殊に野菊の吹かれ居り
山川に高浪も見し野分かな
山の日に荻にしまりぬ便所の戸
鉞(まさかり)に裂く木ねばしや鵙の贄

「ホトトギス」の大正黄金時代の嚆矢となった石鼎の深吉野時代はここに始まる。掲出句は、わたくしが那珂湊の河口で見た防波堤の高浪を想起させた。

鎌倉の谷戸の野分を探りたくて、颱風一過の翌日の午後、逗子へ戻って、「秋草の野を吹き廻り、垣根等を倒した野分後(のわきあと)のありさまも哀れにもまた興趣が深い」(『新歳時記』)という「野分後」を歩いた。谷戸の入口には白萩が散り、芙蓉や槿(底紅)が蝶や蜂を蘂にからめて咲き乱れていたが、芙蓉と槿のトンネルを潜ると、その先は揺れる紅萩の道が続いていた。野分には萩が似合う。紋黄蝶や蜆蝶や蜂が飛び交い、見惚れていると、蜂の羽音が首筋に寄るので、掲出句の星野立子の句のようになっては堪らんと首を竦めながら、行ったり来たりしたが、残り蚊も野分で餓えていたのだろう、足首やジーパンの破れ目から膝小僧をだいぶ吸われた。

この萩の道をわたくしは「実朝の道」とひそかに呼んでいることは「実朝忌」を書いた時に触れたが、まさに今がその盛りであり、

萩の花くれぐれまでもありつるが月出でて見るになきがはかなさ

という実朝の歌を心に今宵も歩いたが、一昨日の颱風の日が朔月だったので、星の光しか見えなかった。それでも、この歌は昼の萩の哀れと夜の月光をまざまざと見せてくれる。23日秋分の日が満月だが、それまで萩は咲いていてくれるだろう。枯れる萩も紅の色あいが深い紫を帯びて趣が深いのである。

那珂湊も逗子も、秋出水には幸い遭わなかったが、昔、国分寺の恋ヶ窪に住んで、郵便配達や牛乳配達をしていた頃は、颱風の豪雨で郵便局の前の路地のマンホールが下水が逆流して溢れ出し、配達に往生した事があるから、都市型の下水出水は三十年以上前からあったわけだが、田舎では、能く水戸の桜川が氾濫して、川側の家の下を削って傾かせたり、橋の上まで川の水位が上がり、秋出水と言えば川の氾濫だった。掲出句は、家を榎につなぐというところが、悲喜劇である。泊雲は「ホトトギス」の高弟だが、その生業は丹波の銘酒「小鼓」の酒造主であり、この「小鼓」も虚子の命名で、石鼎も「ホトトギス」で「小鼓」の販売や掛取りの手伝いをしている。丹波は、用水のような川も多く、出水も頻繁にあったのだろう。

「でみづ」というと、わたくしは幸田文の自伝エッセイ『みそっかす』を思い出す。隅田川が氾濫して、叔母の家に預けられ、母を幼くして無くしたので文は幸田露伴の男手ひとつで育てられていたから野生児で、躾がなっていないと叔母に怒られたり、家へ帰ると、家中に泥水のあとが一線を引いている様や、父が大切にしていた本が水に漬かって膨れ上がり、それを細引きを張って干している父の姿や、夭折した姉のために父が大切にとっていたお雛様が流されて首のない骸となって散乱した無残さなど、人の形をしたものの恐さ、自然の暴威のおぞましさが、生き生きとした筆致で描かれていて、何度読んだかわからないほどのわたくしの座右の書のひとつである。余談だが、「あばあさん」という章には智永の「千字文(せんじもん)」の手習いの話が出て来るが、ここに出て来る「金出麗水」は「金生麗水(金は麗水に生じ)」の誤植である。昔は書の手習いと言えばこの「千字文」と王羲之の「十七帖」が手本だった。幸田文の新しい版や全集が出るたびに、この誤植はそのままになっている。わたくしだけが知っていると出版社の無知を笑っていたが、もう余生に入ったので、いつポックリ行くかわからないので、ここに記しておこう。

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