2010年9月19日日曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔35〕子規忌

ホトトギス雑詠選抄〔35〕
秋の部(九月)子規忌

猫髭 (文・写真)


明治35年9月19日・未明子規歿す
子規逝くや十七日の月明に 高浜虚子 明治35年

糸瓜忌や俳諧帰するところあり 村上鬼城 大正3年
正岡常規(つねのり)、又ノ名ハ処之助(ところのすけ)、又ノ名ハ升(のぼる)、又ノ名ハ子規、又ノ名ハ獺祭書屋(だっさいしょおく)主人、又ノ名ハ竹(たけ)ノ里人(さとびと)。伊予松山ニ生レ東京根岸ニ住ス。父隼太(はやた)、松山藩御馬廻加番(おうままわりかばん)タリ。卒(しゅつ)ス。母大原氏(註1)ニ養ハル。日本新聞社員タリ(註2)。明治三十□年□月□日没ス。享年三十□。月給四十円(註3)
(註1)子規の母方の祖父大原観山を指す。藩学の重鎮だった。
(註2)日本新聞社長は陸羯南(くが・かつなん)。『近時政論考』『原政及国際論』を著し、近代ジャーナリストの草分けとされる。子規の物心両面にわたる最大の庇護者。
(註3)【今ハ新聞社ノ四十円ト「ホトトギス」ノ十円トヲ合セテ一ヶ月五十円の収入アリ】(『仰臥漫録』明治34年9月30日)。
大正15年5月20日発行の初めての『子規全集』(アルス)、「第十三巻 俳論俳話・下」を開くと、巻頭に折り畳んだ和紙が添付されている。広げると、子規の自筆の墓誌銘が現れる。冒頭の写真と文がそうである。御覧のように原文は漢字カタカナ表記だが、ルビと句読点を補い、若干註を付して引用した。

柴田宵曲(しばた・しょうきょく)の『評伝 正岡子規』(岩波文庫)は、この墓誌銘から説き起こされる。この墓誌銘は、明治31年7月31日、河東碧悟桐の兄である河東銓(せん)への手紙に添えられたものである。宵曲曰く。
居士の一生はほぼこの百余字に尽されているように思う。処之助と升とはともに居士の通称である。前者は四、五歳までのもので、爾後用いられる機会もなかったが、後年『日本人』誌上に文学評論の筆を執るに当り、居士は常に越智処之助なる名を用いていた。越智はその系図的姓である。升の名は親近者の間に最後まで「のぼさん」として通用したばかりでなく、地風升(ちふう・のぼる)、升、のぼるなどの署名となって種々のものに現れた。子規は現在では居士を代表する第一のものになっているが、元来は喀血に因んでつけた一号だったのである。獺祭書屋は書物を乱抽して足の踏場もないところから来たので、出所は李義山の故事(註4)にある。居士が獺祭書屋主人の名を用いる時は、すべて俳論俳話の類に限られた。竹の里人は居士の住んだ根岸を、呉竹の根岸の里などと称するところから来ている。新体詩、和歌、歌論歌話などに専らこの名が用いられた。居士の文学的事業の範囲は、自ら「マタノ名」として墓誌に挙げたものの中に包含されるのである。
(註4)李商隠 [813〜858]中国、晩唐期の詩人。字は義山。二十四節気・七十二候の雨水初候に獺祭魚(ダッサイギョ。たつうおをまつる・かわおそうおをまつる)に因む。【カワウソの習性として捕らえた魚を人間が先祖を祭るときの供物のように川岸に並べることから、書物を多く紐解き、座右に並べて詩文を作ること、また好書家、考証癖、書癖などを言う言葉にもなった。唐の李商隠がこの名で呼ばれ、正岡子規がみずから獺祭書屋主人と称した。このことから子規の命日である9月19日を獺祭忌と呼ぶこともある。】(ウィキペディア)。この墓誌は、昭和9年の三十三回忌に、北区田端の大龍寺(だいりゅうじ)の墓畔に建てられた。アルス版の『子規全集』内容見本では題字は違う字体だったのに、自筆墓誌銘の「子規」の字体に改めたのは、『子規全集』の企画者、寒川鼠骨(さむかわ・そこつ)である。以来、改造社、講談社とも踏襲している。

昔、この墓誌銘を初めて見た時、その簡潔さに驚いた。なかんずく、最後の「月給四十円」に驚いた。当時の企業物価指数や消費者物価指数と現在のそれとは単純に比較できないが、現在の40万円前後だろうか。自分の死の値段を平然と月給に換算しているような気がした。正岡子規については、それまで教科書に載っているほどの事しか知らなかったが、この墓碑銘は強烈な印象を残した。

昭和50年に講談社から『子規全集』が刊行され、その第一回配本が晩年の四大随筆『松蘿玉液』『墨汁一滴』『病牀六尺』『仰臥漫録』だった。読んで、更に驚嘆した。殊に『仰臥漫録』は発表を意識したものではないため赤裸々で、石川啄木の『ローマ字日記』や徳富蘆花の『蘆花日記』と同じく、読むとこれまで抱いていた作家の顔が全く違って見えるという驚くべき日記だった。『仰臥漫録』は、ここまで死を間近に見詰めてもがき苦しみ、そして楽しんだ人間を初めて見た驚きに打たれた。以来、この四大随筆は現在に至るまでわたくしの座右の書である。

柴田宵曲の『団扇の画』(岩波文庫)所収の「無始無終」という寒川鼠骨追悼文を読むと、このアルス版の『子規全集』を企画したのが鼠骨であり、彼を師と仰いだ宵曲が請われて、子規庵に日参して子規の原稿をほとんど独力で浄書し、鼠骨と二人で校正編纂した経緯が書いてある。宵曲は江戸学の三田村鴛魚(みたむら・えんぎょ)の口述筆記者でもある。宵曲は中学一年で、家業が傾き退学せざるを得なかったが、上野図書館に日参し、古典、現代を問わず博く渉猟し、森銑三と並ぶ稀代の碩学となった。鼠骨と宵曲の無私の営為に支えられているから、今わたくしたちは子規を読めるのである。前年、大正12年9月1日の関東大震災で、鼠骨は倒れた汽車の窓から這い出して一命を拾い、幸い上根岸にある子規庵も鼠骨宅も中根岸にある宵曲宅も無事で、鼠骨は震災で子規庵以外の一切の紙型が烏有に帰したことを知り、灰燼の底で、全集を推進し、宵曲は子規庵の病床六尺の机で、膨大な子規自筆の稿本を浄書し続けたのである。

子規を支えた陸羯南といい、子規を慕いその全集を企画した寒川鼠骨といい、鼠骨を師と仰いで、慫慂されて、膨大な子規稿本を浄書して、大正13年から昭和6年までアルス版『子規全集』(全十五巻)、アルス版『分類俳句全集』(全十二巻)、改造社版『子規全集』(全二十二巻)の編纂に従事した柴田宵曲といい、ほとんどおのれを語る事のなかった無私に徹した人たちであったと言っていい。殊に、宵曲柴田泰助をわたくしは理想の通人として敬愛する者である。

子規忌を修する時、わたくしの脳裏に浮かぶのは、この三氏である。虚子や碧悟桐も全集の編纂に名を連ねているが、実際は鼠骨と宵曲の仕事である。安政以来の大震から一年も経たずに上木されたアルス版『子規全集』第一巻を紐解けばわかる。天金に焦茶色の表紙の手触りの暖かさ、見返しの青梅とさくらんぼの子規の彩色画の美しさ、コットンペーパーの用紙の柔らかさ、木版印刷の冒頭の子規自筆短冊や鶏頭の写生画の素晴らしさ、すべて鼠骨の意見に基づくものだが、無署名の編纂後記の奥ゆかしい文体は紛れもなく宵曲その人のものであり(最終巻の「総後記」に至って編纂の経緯が語られる)、子規がこれほどの短歌や俳句の革新、驚くほどの好奇心と卓見、また晩年の「この人を見よ」と言うしかない四大随筆を遺せたのは、彼らの子規に対する敬愛の深さである。

子規亡き後の双璧と言われた虚子と碧悟桐には、その大いなる業績に見合う、『子規全集』に匹敵するような全集が無い。毎日新聞社の『高濱虚子全集』など、抜萃ばかりで、角川書店の『飯田龍太全集』もそうだが、胸糞が悪くなるほどの杜撰な糞全集としか言いようが無い。全集ではなく選集に過ぎない。

虚子の「子規忌」の『新歳時記』の解説を見てみよう。
九月十九日。正岡子規は松山の人。升と呼ばれた。明治三十五年、年僅に三十六を以て東京根岸に逝いたが、その業績は不滅のものである。歿する前日紙に認めた「糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな」「をとゝひの糸瓜の水も取らざりき」「痰一斗糸瓜の水も間に合はず」の糸瓜三句が絶筆として残つてゐる。著書多く、悉く子規全集に収まつてゐる。墓は田端の大龍寺にある。忌は全国の俳句団体で盛んに修せられてゐる。糸瓜忌。獺祭忌。
悉く子規全集に収まつてゐる。」は、田中裕明が「悉く全集にあり衣被」で引いた一節だが、虚子の不滅の業績は、虚子没後五十年を経ても、未だに悉く全集にありとは言えない。子規が試みた『分類俳句全集』は最新の『子規全集』にあるが、それに倣った虚子畢生の『ホトトギス雑詠選集』は『高濱虚子全集』にはない。単行本もすべて絶版のままである。鼠骨・宵曲を継ぐ者おらずや。

掲出句の村上鬼城の一句は、まさにアルス版の『子規全集』あればこそ言える一句である。子規の原本を浄書して悉く残してくれたがゆえに、俳人には「子規」という帰る場所があるのだ。


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