2010年9月2日木曜日

●かんそうぶん? 近恵

かんそうぶん?

近 恵


先頃のウラハイで、橋本 直氏の文章のなかに興味深い部分を発見。
http://hw02.blogspot.com/2010/08/22.html
石原千秋氏がセンター試験問題を批判する文脈の中で書いているが、従来の国語の授業とは、実は規範的な既存の道徳判断に沿った小説の読解と感想文書きを要求される時間でもあったわけで、過去のセンター試験の選択肢は道徳的判断で良いセンまで解が導けてしまう。
この石原千秋氏なる人がどのような方かは存じ上げないが、小学校の国語の授業、ことに「読書感想文」を書くにあたり、この“実は規範的な既存の道徳判断に沿った小説の読解と感想文書きを要求される”というのは実に不可解かつ違和感のあるものだ。

私が小学生の頃は道徳の授業があり、いわゆる“正しいこと”は道徳の教科書の中にある物語やなんかでもって学ぶ。「走れメロス」みたいな。更に就学前から読書好きだった私は親が購読していた“PHP”なんかも活字の一端として読み漁っており、教科書から学ぶ道徳は随分おりこうさんに頭に刷り込まれていた。

で、国語の時間である。いわゆる“作者が言わんとしていることの要約”や“「それ」とは何を指しているか”とか、そういうことはちゃんと読めば解ることで、道徳的判断とか全く関係なく明らかに正解があってしかるべきもの。だけれど、小説の読解や感想文となったときには全く別で、その書かれた文章からなにを読み解くか、どんな感想を持つかは、一人ひとり違って当たり前。ましてや自分自身だって、自分の置かれている状況によって同じ本でも感想が違うことがある、と、小学三・四年生の時には感じていた。

夏休みや冬休みの宿題の読書感想文は、文部省推薦図書を読んで書くのが一番無難。けれど自分がその本を読んで思ったことをそのまま書くことは、いわゆる“正解”ではない可能性が大。なにしろ心が引っかかるのは必ずしも道徳的に正しいことではなかったりもするのだ。私は読書の習慣のせいもあって国語の読解力は高かったが、作文や感想文は嫌いだった。なぜかというと“正解”を求められるから。だから五年生くらいからは、本のあとがきを読んでその筋にそって読書感想文を書いた。そうすれば絶対に花丸をもらえる。けれど私は醒めていた。それは実は私の感想ではない。先生が求める“正解”の感想だ。私が感じていることは本当は違う。けれどそれを書いても花丸はもらえない。花丸をもらえないと母親がうるさい。ただでさえ癇癪持ちのような母親に不必要に叱られるのはごめんだ。だから私は“正解”の感想文を書いた。そうやって私は中学生までは良い成績を維持した。文句を言われたくないから自主的にやる。文句を言われたくないから大人が正しいと思いそうな方を選んでおく。実に小賢しい。けれどまあ、どんな理由であれ自主的にやるということは重要でしょう。

しかし、まさか国語の授業が指導要綱からして規範的な既存の道徳判断に沿った小説の読解と感想文書きを要求していたのであれば、それは作文や感想文は感じたことを表現するのが重要なのではなく、道徳的に正しいことを書くのが正解なので、不正解を書いた子は指導対象となるとか、そういうことだったのか。なんかそれって、うーん。。。おそらく自分もそういう教育方針のもと授業を受け指導されてきたわけだが、たかだか田舎のいち小学生が感想文や作文の“正解”について疑問を持っていたぐらいだから、さほどたいした指導要綱でもなかったんでないのか?むしろ小賢しい子供を増やすだけ、みたいな。それとも、みんな読書感想文や作文に、文章の出来の良し悪しではなく内容に関して点数をつけられるというようなことに疑問を感じなかったのかなあ。

文科省の次期教育指導要領の方針では、巷間指摘された若者の表現力不足対策の一環(多分)から、小中の国語における短詩型文学の創作(例えば中学なら学年段階ごとに1詩→2短歌→3俳句)がこれまでより重視されてカリキュラムに組み込まれることになるはずである。』という話もあり。

表現不足対策を補うのであれば、短詩の創作なんてまったく役に立たないような。そんなのはそれがやりたい人にやらせておけばいいんだ。はっきりとそう思う。私は読書は大好きだけど、物書きになりたいと思ったことは一度もない。せいぜい漫画家程度だ。更に作文よりも詩を書くという課題の方が、もっともっと嫌いで苦手だった。第一、詩を書く自分なんて気持ち悪い。人の詩を読んで解ったような気になっている自分も気持ち悪い。ましてや長い詩になればなるほど。

表現不足の問題は、人に伝えようと思うことを怖がらずに人に伝える、言葉は人を傷つけることもあるというリスクを負いつつ自分の考えをわかってもらおうとするとき、いろいろな表現の仕方で理解してもらおうと努めようとするコミュニケーションの問題から発していると思う。

なんとなく簡単で、なんとなく仲間同士で通じ合う言葉は、なんとなくわかったつもりでお互いに傷つくかもしれないリスクを避けることができる。けれどそれでは表現力は退化する一方に決まっている。だって相手にちゃんと伝えようとして言葉を選ぶ努力がいらないんだもの。それを受け取る方も同様だ。それってなんか国語で詩やなんかを書いて解決する問題じゃないような気がする。むしろいろんな言葉や表現の仕方があるということを学ぶ方が大事なんじゃないのかなあ。

“正しい”読書感想文を書くことを暗に要求しておきながら、一方で表現不足を嘆く。これってなんだか変じゃない?

それに、コミュニケーションの問題って国語の授業でやることとはまた違う気がする。

俳句についての評価はその道の人たちでもそれぞれまちまちで、ましてや教師がちゃんと評価や指導ができるのかとか、そういうこと以前の問題だと思うのだ。


4 件のコメント:

さんのコメント...

この意見、賛成。この正論は、でも、かしこいそれなりのセンスある文科省のお役人だったら、わかっているのでは?

それが、どうして、このような、往年の文学統制の逆のようなかたちになっているのでしょうか?
ここのところを、在野の明敏なセンスある人達が解析し改正して行かなくちゃあ。得に「若手」のホープ達が。

さんのコメント...

改め、
得に → 特に

こういう事をやっていると、国語力の低下の好例にされえちゃいそうです。

恵 さんのコメント...

吟さん
私も自分の文章を読みながら、さっそく国語力の低下の好例にされそうで、もっと真面目に作文とかに取り組めばよかったと冷汗だらだら。
中年になって始めた俳句も表現力の向上には役立たないということを体現したようなもんです。

どうせなら一校に一人づつ、詩の専任顧問、短歌の専任顧問、俳句の専任顧問が必要になって、多くの俳人が顧問料を受け取り俳句で飯を食えるようになる…っていう方向もアリかもしれません。そのためには若手の俳人の皆さんには俳句だけではなく政治的にも力を持つような社会的地位についてもらわねば。

tenki さんのコメント...

>一校に一人づつ、詩の専任顧問、短歌の専任顧問、俳句の専任顧問

冗談にしても、気持ち悪すぎる国だwww