山田耕司
もりだくさんである。
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〔現代俳句協会青年部勉強会レポート〕「三鬼、語りぬ」(生駒大祐)
のっけからの宇多喜代子が数世紀を生き抜いてきた八百比丘尼のようでもあり、その前で緊張する青年の様が想像される。
「作家の肉声を蘇らせながら句を読むと楽しい。それが今はみんなわかってしまっているから味がない。だから想像する力が失せていきますよね。」と、こういう切り出しでは、「自らが想定する作家の声」を頼みとするべきであって、リアルでの接触を以て作家の声そのものとしてはいけない、という戒めにも聞こえてきて、なるほど宇多さんは鋭いことをいわはると思っていたら、結局は、三鬼のテープを聞くのであった。
三鬼のサービス精神がみずからの発言をいささか行儀の良いものにしているキライがあるように思われるが、何にせよ、このような時空を超えた試みが行われることに敬意を表す。
結局、三鬼の言うことは読者の問題に立ち返るのだ。いくら社会生活を詠んでいても読者がそれを読み取らなければそれは伝わらない。逆に、社会生活から一見離れた句を詠んでいるように見えても、読者がそれを読み解けば社会生活は必ずそこに反映されている。社会生活を伝えるために俳句を書くことと、社会生活を読者との理解の回路として言葉の表現に執着することと、表象は似ているが方針は異なる。三鬼の放つ煙幕はさておき、生駒大祐が触れる読者との問題はこれからぜひ続きを読ませていただきたいテーマではある。
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〔週刊俳句時評第38回〕ビフテキと冷奴 宇多喜代子句集『記憶』を読む(神野紗希)
なるほど、最新句集を扱うに、過去の句集をふりかえりまとめていって、本人の言葉を用いて「ビフテキから冷奴」へとの嗜好の変化になぞらえるのは、文章として読ませる構成。さすがである。
さて、その変化のみならず、一貫性をも指摘していて、これが死についての言及の多さだというのだが、これはどうだろうか。
おそらく統計をとったとしても、これだけ、「死」の語を用いて句を作ってきた俳人は、珍しいのではないだろうか。しかし、彼女は「みんな死ぬ」という事実の前に、ニヒリストにはならない。なんだかおおざっぱだけど立派な感じ。やはり人格的に優れていることが句に反映されていると言ってさし上げるのが礼儀なのだろう。神野はあらかじめ礼を以て接しているのである。
サフランや映画はきのう人を殺め 宇多喜代子
『りらの木』(昭和55年)
この句において神野は次のように述べる。
映画の中で人が死んだことをいうとき、「映画」が「人を殺め」ているという表現をとることで、映画を作った人間たちと、それを見ている私たち、双方への冷ややかな批評の視線が突き刺さる。「サフラン」は、紫で涼しげな花だ。その色彩が、ひやひやとした心理感覚を体現している。あれ? 「きのう」については?
『半島』が一定の変化の境になっているのは私も同意するが、それ以前と以降では、時間軸に対しての態度に変化があるのではないかと思われるがいかがであろうか。眼前の「サフラン」と、記憶の領域に属する映画の内容と、すぐさまには切り結ぶことがない二点間に回路を切り開こうとしている。そうした邂逅を実現させるのがまさしく定型への挑戦であった、そんな時代の句。
一方、『記憶』では、定型への挑戦というよりは、作者内の「いいたいこと」の典型をいいおさめておきたいという気配へと変化するようである。典型への志向は、構造的で衝撃的な円環を有する句の立ち姿ではなく、条理として他者と共有され流通するコードの安定を句の顔つきとするようであり、「死」は作者の一貫性ではなく、表現の不連続性において検証されてこそ、宇多喜代子の履歴を表現から探ることになるのではないだろうか。
宇多喜代子のビフテキは、かなりガッツのあるものだったと思うのだが、そこんとこはあまり触れないことにでもなっているのだろうか。
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「何か」とは何か 田島健一電子句集『霧の倫理』を読む(山田露結)
散文的な「意味」の拘束を揺さぶりながらふやかしながら、言葉同士のかすかな磁場に耳を傾ける、そんな気配の田島健一の句を評するのは、なまなかな散文では実現できない。これが山田露結の個性によって絶妙に掬い出されている感あり。
そこで、掲句が読者に示そうとしているのは、読後に立ち上がるその別の「何か」の存在ではないだろうかと考えてみる。「何か」を意味として伝えるのではなく、俳句であろうとすることそのものが伝える「何か」を導くのが田島健一の句の特徴であるとすることには、異議無し。
「雉子」が現れて沈むまでの一部始終。
これをそのまま俳句表現そのものに対するメタファーとしてとらえることが可能であれば、掲句は俳句という表現形式を機能させることによって生じるひとつの効果の有り様をやや皮肉めいたかたちで暗示しているようにも受け取れる。
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週刊俳句・10句競作 第1回 結果発表
さて、何と言っても、この企画の「途中」感が面白い。
作家のベスト&ブライテストを見せてやろうというよりも、チャレンジしてみるぞという「途中」の柔軟さが出句作品に感じられた。また審査諸氏も「読む」ということを個人の立場で行っていて、そこに「何らかの権威として入選作を世に示す」的な気負いが感じられない点に、制度のここちよい「途中」感がある。
この感覚は、週刊俳句ならではの気配なのだろうか、それともネットという環境が育むものなのだろうか、もちろん、かかわる方々の創造性なくしては語れないものであることはいうまでもないのだが、活字媒体ではあまり味わえないのではないかと思われる。この「途中」テイストを併せて味わいながら、俳句を書いたり読んだりすることの楽しさとスリルを拝読。
「途中」、もちろんこれは「ライブ」という語に置き換えてさしつかえない。
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余談。
『虚子に学ぶ俳句365日』、現在手元に三冊。
差し上げて出て行ったと思ったら、別の人からいただいてしまった。
不思議な運動をする書籍である。
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