2015年9月30日水曜日

●水曜日の一句〔椎野順子〕関悦史


関悦史









間夜や水に根のばすヒヤシンス  椎野順子


句集の表題句であり、小澤實の序文、宗田安正の栞文でも取り上げられている。この作者の代表句ということになるだろう。

「間夜(あいだよ)」とは、序文によると「契った男女が次に逢うまでのその間の夜」の意味。万葉集の東歌で一度だけ使われたことがある古語だという。つまり、これは恋の句なのだ。

会えずにいる夜々の待ち遠しさ、恋しさ、淋しさ、不安、期待といったさまざまな気分が、不分明のままに、容器中に根をのばしていく水栽培のヒヤシンスに形象化されている。のびていくヒヤシンスの根は暗喩的に登場していているのだが、それが指し示す気分が不分明なままなので図式的な浅薄さは免れている。

というよりも、指し示されているものは気分だけではなく、ヒヤシンスの根を見つめつつ、それとほとんど同化するに至った語り手の存在そのものにまで句は達しているのである。そうして、植物とも、恋人との逢瀬を待つ人間ともつかなくなった何ものかが、「ヒヤシンス」の音韻に導かれるように水に触れて冷され、物として間夜に置かれるのだ。

この「間夜」なる、突如現代に甦らされた耳慣れない古語も浮いていない。「水に根のばすヒヤシンス」が、「間夜」という言葉を喩的に映像化するとしたらこういうものであろうという、一種の批評だからである(宗田安正の栞文によると、この句を作った当時、作者はヒヤシンスなど育ててはいなかったという。言葉とイメージの運動のみでできた句なのだ)。

季語としての「ヒヤシンス」は春である。また「根のばす」は、まだ根が延びはじめたばかりのようだ。容器中に根が茂っているのであれば「満ちる」等、別の動詞が選ばれるだろう。そうした経過時間の短さからすると、不安や寂しさといった要素はまださほど強まってはいない。またそもそも水に侵入してゆく根という形象は、それ自体が愉悦のうちにあるともいえる。

この句は、恋愛感情と孤独感といった人間臭い領域から、植物の形相を経て、非人称的な情動と存在そのものの領域へ、音もなく身の一部を延ばしていく、そうした天体的な緩やかさを持つ言葉とイメージの動きを定着させているのである。その動きの中に、かつて「間夜」なる言葉を使い《小筑波(をづくは)の嶺(ね)ろに月立(つくた)し間夜はさはだなりぬをまた寝てむかも》(『万葉集』巻十四)と詠んだ東歌の作者も引き入れられてゆく。


句集『間夜』(2015.9 ふらんす堂)所収。

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