2018年5月31日木曜日

●木曜日の談林〔松尾芭蕉〕黒岩徳将



黒岩徳将








五月雨や龍燈揚る番太郎 芭蕉

前回同様、延宝五年(一六七七)の作である。


「番太郎」は江戸で各町に雇われ、木戸の番や町の警備をした人を指す。「龍燈」は海上で深夜に点々と現れる光の現象を、竜神が神仏に捧げる燈火だと見なした語である。

シンプルな句の形であるが、「番太郎」まで読まないと、見立ての句であるとはわからない。海の景かと思わせておいて、街中であったかという種明かしを楽しむことができる。

「龍燈」がそもそも比喩の語彙であり、それをさらに見立てる。機智だけに留まりそうなところを、江戸の町の風情に着地させているところが、句としての力強さを保っている所以かもしれない。本日、東京は雨だが、江戸の五月雨はいかようであっただろうか。

2018年5月29日火曜日

〔ためしがき〕 虛子とユーミン 福田若之

〔ためしがき〕
虛子とユーミン

福田若之

荒井由実の「やさしさに包まれたなら」のなかでも、おそらく、次の一節はよく知られているだろう。
カーテンを開いて 静かな木洩れ陽の
やさしさに包まれたなら きっと
目にうつる全てのことは メッセージ
さらに、こうも歌われている。
雨上がりの庭で くちなしの香りの
やさしさに包まれたなら きっと
目にうつる全てのことは メッセージ
これらの言葉を、たとえば、高濱虛子の次の句と比べてみること。
秋風や眼中のもの皆俳句 高濱虛子
与太話に思われるだろうか。けれど、実際、両者を比べてみると、そこから数々の興味深い問いが喚起されるのだ。

たとえば、「俳句」は「メッセージ」でありうるのか、ありうるとすれば誰にとってか。あるいは、「もの」と「こと」とのかかわりと、「俳句」と「メッセージ」とのかかわりとのあいだには、なんらかの類比が成り立つと考えられはしないか。「目にうつる」という身体感覚と、「眼中の」という身体感覚の差異はどれほどのものなのか。「俳句」であれ「メッセージ」であれ、とにかく、認識された事物がそれ自体何かしら言語状のものであると感じられる契機として、なぜ「秋風」、「静かな木洩れ陽」あるいは「くちなしの香り」といった現象が訪れなければならないのか。そのとき、なぜ虛子は「秋風」を「や」の一字でもって詠嘆しなければならず、ユーミンは「静かな木洩れ陽」や「くちなしの香り」の「やさしさに包まれたなら」と綴なければならないのか。そして、思うに、虛子の把握とユーミンの把握の決定的な違いは「きっと」という一語にあらわれている。この「きっと」は、いかなる差異のあらわれであるのか。

2018/5/26

2018年5月28日月曜日

●月曜日の一句〔白石喜久子〕相子智恵



相子智恵






いつの間に沖のつめたき浮輪かな  白石喜久子

句集『鳥の手紙』(角川文化振興財団 2018.4)所収

浮輪をして海で遊んでいた子が、いつの間にか遠くの沖まで泳いできていて、気づいたら陸が遠くなっていた。水の冷たさによって、ふと我に返る。その心もとなさが〈いつの間に〉に表れている。

何度も沖の方まで泳いでは帰って……を繰り返していたのかもしれない。何度目かの沖に出た時に、海水が冷たくなっていた。いつの間にこんなに水が冷たくなっていたのだろう。気づけば夕暮れも近い。

夢中で遊んでいて、ふと感じる寂しさや、もしかしたら帰れないかもしれないという恐怖。子どもの頃の遊びの中で、夕方の時間に誰もが多かれ少なかれそのような感情をもったことがあるだろう。そんな心細さを静かに思い出す一句だ。

2018年5月27日日曜日

〔週末俳句〕ではない十分 大塚凱

〔週末俳句〕
ではない十分

大塚凱


土日を使って東京から京都へ遊びに行くような人もいるのだから、いっそ、海外に行ってもいいと思った。金曜の深夜羽田発、月曜朝成田着の飛行機を予約し、台湾に向かう。1泊3日の弾丸旅行だが、京都で休日を過ごすよりも安上がりだろう。

瑞芳という駅から平溪線に乗って暫くすると、河が見えた。抹茶に少しのミルクを掻き混ぜたようなその河を遡ってゆく。やがて鉄道は、忽然と並び立つ商店の群へ分け入りながら減速した。そこが十分(Jiufeng)だ。

駅に降りると、小さな商店が単軌すれすれに営まれていることがよくわかる。観光客は線路の上に立ち、その隙間の空へとランタンを放つ。台湾内外で有名なランタンフェスティバルの開催地に近いことから、この街では気球の要領で大きな紙製のランタンを放つことが出来るのだ。ランタンの色も様々。黄色は金運、赤色は健康にかかわるという。筆で願いを書くこともできる。日本人カップルがお互いの名前を記し、桃色のランタンに永遠の愛を願っている。それはもはや、願うというよりも、誓うという行為に限りなく漸近していた。裏を返せば、共同のアリバイ作りのようなものだ。誰も傷つかないための幸福なアリバイ工作、それが「共同作業」の本質に思える。やがて自分の披露宴で純白のケーキに刃物を振り下ろすことがあるのだとしたら、僕はそんな考えを忘れてしまうのだろうか。

線路上から放たれたランタンは風に乗り、小さな山へと向かう。ランタンが山を越えてゆくところを見ると、なんだか願いが叶うような気がしてくるものだ。しかし、じっくり眺めていると、その多くは山の手前、酷いものでは駅から川向こう、橋を渡ったにすぎない近さで墜落する。ランタンの価格は、駅近くの店でおよそ150元~200元(日本円で600円くらい)、150mほど離れた人気のまばらな場所では50元というところもあった。たった150m離れただけで、一気に商店の活気は落ち、ランタンもみすぼらしく見えてしまう。事実、やはり高い店の方がランタンの造りや燃料もしっかりとしているようには見受けられる。常に観光客がいるのは、駅前のごく一部だけだ。

吊橋を渡ってしばらく歩くと、もう観光客は見当たらない。対岸から駅を眺めると、その周辺だけが風景の中で異質に感じられる。橋を渡れば、そこは山間部に住む人々の生活の場である。余所者と交わることのない空間。ただ時折、火の消えたランタンが墜落する。路地裏の黒猫をかわいがっていたら、じきに墜ちそうなランタンを見つけた。それは左右に揺れ動きながら、僕へ近づくほどに落ちる速度を早めてゆく。やがて道路のど真ん中に墜ちた。車がその紙屑を避けて通ってゆく。見かねてランタンを道端に寄せると、そこには書いてあるのはハングルだった。なんと書いてあるかはわからない。でもきっと、彼はこの世の中に存在し、たまたま僕と同じ瞬間に十分を訪れ、そして確かに願いを込めたはずなのだ。

十分に居る間、いくつものランタンが風に導かれてゆくのを眺めた。やがて、ランタンに書いた願いは叶うのだろうか。梢や道端でぐちゃぐちゃになったランタンを見ていると、願うという行為すら馬鹿馬鹿しく思えてくる。眺めていてわかることはひとつ。この町では、より高価なランタンほど、あの山を越えてゆく。



2018年5月25日金曜日

●金曜日の川柳〔濱山哲也〕樋口由紀子



樋口由紀子






スタートライン棒一本ですぐ引ける

濱山哲也(はまやま・てつや)1961~

ああ、確かにと思った。たった、それだけで始まるのだ。しかし、たったそれだけのことがなかなかできない。何かを始めようとするとき、何かをしなければならないときに私はいつも言い訳をする。言い訳だけはすぐに思いつき、結局は何もしない。そんな、我が身を反省する。

一句を読むことによって、日常を捉え直すきっかけを与えられる。たぶん、作者も書くことによって我が身に言い聞かせて、自分を振り返っているのだと思う。

〈おっとっとおっととっとと生きている〉〈ぶっちゃけた話はしない侘と寂〉〈骨よりも心のほうが折れやすい〉〈金持ちになって私を助けたい〉。どの句にも自分らしさを入れた着眼のおもしろさがある。『川柳作家ベストコレクション 濱山哲也』(2018年刊 新葉館出版)所収。