『現代俳句』2009年6月号(通巻493号)70p
現代俳句協会の機関誌。ふだん読むところはほとんどないが、今月号は、「特集・第9界現代俳句大賞」(期せずして阿部完市追悼特集になった)と青年部シンポジウム「前衛俳句は死んだのか」での金子兜太講演録を掲載。読み応えがあります。
まず阿部完市特集から。
宇多喜代子「阿部完市の句業~次の何かを思わせる」2頁を導入に、安西篤による80句抄出と遺作となった『水売』から自選12句が続き、宇井十間氏による阿部完市論「一回性の詩学」。そこで引かれる阿部完市のことばが興味深い。
私は、私の心というものを--いつも何かきまりきって考え、同じ答えを出し、同じ行動を示させる--をあまり信用しなくなった。「今まで」でない「今」を、「今までの心」でない、心の「今」を、真実の「今」をみたい思いたい。興味深いのだが、出典(参照)の表記がない。この手の遺漏はどうにかならないものか。
(阿部完市には)反復性、意味性、ないし構築性といったような現代的な言語表現の特性を、さまざまな方法で揺さぶるような作品が多くある。(宇井十間・上掲)いわば紙の上の印字に定着しない一回限りのテクスト、という把握。
さらに「アベカン、眼中の一句」として、池田澄子、酒井弘司、塩野谷仁、鈴木明、鳴門奈菜5氏の短文と愛誦15句が並ぶ。5氏全員が「愛誦15句」に収めたのはざっと見て次の3句。
少年来る無心に充分に刺すために
ローソクもつてみんなはなれてゆきむほん
栃木にいろいろ雨のたましいもいたり
まぎれもない代表句ということになるのでしょうが、私などは1句目の「少年来る~」は良さがまったくわからない。選が「時事」に流れたとは思わないが(なにしろ5氏全員、満票なのだ)、他の多くの句に備わる不思議な感触のない直截的な句だけに、いまひとつ納得が得られないでいます。
さて次は金子兜太講演録。これについてはすでに「豈weekly」誌上での関悦史氏による詳細レポートがあり、いま読み比べてみても、関氏のレポートは抄録をはるかに超えて、今回の「公式記録」に遜色はない。あらためて驚愕。
この講演でトピックと思ったのは、すでにいくつかの場所(ブログ等)で指摘のあるように、高柳重信の「前衛俳句」への貢献を大きく評価している点、物と情(こころ)の二元論にかなりの重点が置かれているところ、この2点。まとまりのある話とはいえませんが、話題豊かな講演だったようです。
(さいばら天気)
【参考リンク】
週刊俳句・追悼阿部完市
週刊俳句・現俳協シンポジウム「前衛俳句」は死んだのか
ウラハイ・「前衛俳句」は死んだのか・その後
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