2009年5月17日日曜日

〔ネット拾読〕塩昆布さえあれば茶漬け三杯はいける

〔ネット拾読〕
塩昆布さえあれば茶漬け三杯はいける

さいばら天気


インタネット上の俳句関連記事(ブログ等)を拾い読むという新コーナー。昔ならネット・サーフィン(死語!)だが、今は「RSS」という便利なものがある(この語がわからないという方は検索で調べてください)。いわば記事クリッピングサービス。登録しておけば、新しい記事を知らせてくれる。私は「はてなRSSリーダー」(http://r.hatena.ne.jp/)というサービスを使い、俳句のほか時事記事も、これを頼りに閲覧している。

なお、〔ネット拾読〕の下に付したタイトルには意味がない。複数のブログ記事を断片的に紹介するこの記事には全体を貫くタイトルが付けようがないので。


●海図のアポリア 2009/04/08
from Tedious Lecture
http://haiku-souken.txt-nifty.com/01/2009/04/post-34b1.html

橋本直さんのブログから1本。前半は4月4日神奈川近代文学館で催されたシンポジウム「虚子の客観写生」のレポート、後半は小誌「週刊俳句」第102号掲載の「前衛俳句は死んだのか」についての記事に触れる。雑記風の筆致ながら読み応えがあります。

ここでの「海図」が小川軽舟著『現代俳句の海図』が踏まえたものであることは明らか。雑駁にせよ精緻にせよ俳句の海図を描き出すことはアポリア(難題)である。虚子=ホトトギスと前衛俳句とを仮に両極とする海図もまたとうぜん考え得るわけで、そのすると、小川軽舟氏の「海図」は、良い意味でも悪い意味でも「大洋」よりむしろ静穏な「内海」の海図であったかもしれない。
(客観写生の可能性について)岸本さんは 虚子、素十、素逝らの例句をいろいろあげて客観写生表現を説明し、100%は無理だがまだまだ行けるという風なことを仰った。主観は消せないが読む人によってぶれないことばを使う、とも。思うに、この「ぶれない」ということへの信頼と態度の問題が個々の差異のモトになるのだろう。これは〔信じる/信じない〕と〔やる/やらない〕のマトリックスで四つの態度があり得る。
後半からも引いておく。
今回のシンポを含めて、カッコ付きの「前衛俳句」について、それが何であったのかを定義していくことの困難よりも、そのような「前衛俳句」(あるいは「客観写生」)をめぐる言説の構造について論じる方がよほど面白いだろうとは思う。
その「よほど面白い」実例として、「和漢の儒家の「鬼神論」の解釈論的な知の構図のありよう」が参照される。
例えば諺では「鬼神」やら「怪力乱神」を語らないはずの儒家達の、有鬼・無鬼(有季・無季みたいでしょ)についてとってもべらべら論じているその態度のラディカルさ加減といったらこれぞ風狂って感じでたまらないのである。
例えば「こころ」という概念がある。ここからは、曲解・誤解・不適切な単純化の誹りを怖れず言うのだが、「こころ」という文学者も心理学者も誰も最終的な(究極の)定義を為し得ない代物について、ひるまず定義を試みるよりむしろ、「こころ」について何が語られたか(その言説の集積は実際おそるべき膨大さである)を、眺め腑分けし定位していく作業のほうが実りが多い、といったことがある。

「前衛俳句」という言葉が指示するものが人と脈絡と時代によってぶれにぶれ、定義の困難・不可能性がますます顕著になっていき、そこから生じる紛糾に頭を悩ませるとしても、それはそれとして「語られることの豊かさ」に目を向けるべきということか。


●鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ 林田紀音夫 2009/05/11
from 僕はどんな夢を抱かなかったか
http://sternskarte.blog.drecom.jp/archive/459

表題の有名句に「今の自分の気持を自分が忘れないために、消える鉛筆ではなく、消えないペンで書くのだ」という一般とは異なった福永法弘の解釈があることを、栗林浩『続俳人探訪』から引いて紹介。鉛筆かペンか。ペンというのは意表として興味深いが、無理があるように思った。


●列島最後の桜 2009/05/12
from 無門日記
http://blog.livedoor.jp/mumon1/archives/51166397.html

小誌「週刊俳句」第107号掲載の「季語って何だ!?」に触れ、「9月11日」を取り上げる。
「9月11日」という日付の持つ何らかの力は、おそらく今後50年程度は生き延びるのではないか。しかし、この日付が人々に与えるイメージは、原爆忌などとは大きく違っているように思う。これをテロによる人類の悲劇と受け取る人もいるはずだ。しかし同時に、アメリカの身勝手な被害者意識を煽った日、という受け止め方もかなりあるのではないか。9月11日に匹敵するほどの惨事を世界中にふりまいているのが米国という存在であれば、なぜこの日を特別なこととしなければならないのか、という意見だって当然あるはずだ。
書き手の五十嵐秀彦氏は、「9.11」に関する認識について相対化、多視点を提示する。納得である。となると、この「新季語」の「本意」とは?

私個人としては「新季語」認定というものにまったく興味がないが、「9月11日」が季語として論議され、題詠の対象とされていることには、そうとうの違和感をもつ。

この日、直接の被害者としておよそ3000人が死に、この日の出来事に連なる長い時間のなかでさらに膨大な人が死んでいったという歴史があり、この日を契機にしたアメリカの行動のなかでさらに膨大な人が死に、これからも死んでいく現在と未来がある。死者だけを言うのではない。「他者からの攻撃による死」を、なんらかの大きな不幸の、わかりやすい一側面、一結末として挙げたに過ぎない。前掲、五十嵐秀彦氏によるふたつの観点の並置は、そうした事実認識を含むものと解する。

「9.11」を俳句に盛り込むには、それなりの覚悟が必要だろう。「季語になるか、ならないか」といった論議、題詠は、暢気な座興にしか映らない。

善人ぶるつもりはないし人道主義者でもない。反米でも親米でもない。見識があるわけでもない。しかし、慎みというものを人並みに知っているつまりなわけで、重大な事案について「黙する」という態度もまた、節度ある行動のひとつだと思っている。

2 件のコメント:

猫髭 さんのコメント...

夏井いつきさんの本は『子供たちはいかにして俳句と出会ったか』がわたくしの俳句の入門書のひとつで、『絶滅寸前季語辞典』も座右の書なので、お世話になった先達のひとりなのですが、今回の企画は違和感がありました。「9.11」は崩壊前に仕事で立ち寄ったし(菊田一平さんは偶然現場で巻き込まれ、その体験を俳句にして残しています。『どつどどどどう』)、随分とアメリカの友人たちとも話し合ったので(「悲劇」に対する絶望と「何故こういうことが起こったのか」という自問)、「季語になるかどうか」というのは、「個人の死は悲劇だが多数の死は統計に過ぎない」というアイヒマンが突きつけた問いからも遠く離れていて不気味なものを感じました。「言葉もかけられない悲しみには黙っていることが礼節というものだ」とわたくしの師である吉田健一が言いましたが、度し難い人たちとしか言い様が無い。

天気 さんのコメント...

猫髭さん、こんばんは。
言葉っておもしろいなと思うんです。
というのは、週俳107号の次の一文。

この事件のあった日から連日、ビルの崩壊する衝撃の映像が繰り返しテレビで放送され、テロが他人事ではない不安を、身近に感じるきっかけとなった。
http://weekly-haiku.blogspot.com/2009/05/08.html

字面には「他人事ではない」とあるのに、この一文が纏う物凄い「他人事」感は、いったいなんなのだろう、と。

交通事故も戦争も窓の外で起こる。窓は、むかし文字どおり窓でしたが、テレビという窓があらわれ、インターネットという窓があらわれ、窓の外の不幸は、爆発的に広がりました。

「テロって怖いね」
「ビルに飛行機が突き刺さっちゃうんだもん」
「いっぱい死ぬね」
「日本にもテロが起こるのかな」
「他人事じゃないわ」
「さ、そろそろ晩御飯にしましょうか」