2010年4月2日金曜日

●ホトトギス雑詠選抄〔12〕花冷・上

ホトトギス雑詠選抄〔12〕
春の部(四月)花冷・上

猫髭 (文・写真)


花冷の闇にあらはれ篝守(かがりもり) 高野素十 昭和2年

がたぴしと入るゝ襖や花の冷 川田十雨 昭和10年

わたくしが住んでいる鎌倉と逗子にまたがる丘は、結界のように桜並木に囲まれており、満開になると空が見えなくなるほど道の両側から万朶の花が張り出す。桜吹雪で花屑が道を埋め尽くすと、バスはモーゼのように桜の海を分けて進む。桜は夜も咲き通しだから、坂道に花のトンネルがライトに浮かび上がって1キロ近く続くと、帰宅するというより凱旋するといった豪勢な気分になる。

今年の鎌倉の開花は、平年より6日早く昨年より1日遅いと言われた3月22日の東京の開花宣言よりひと月も早く、段葛(だんかずら)の染井吉野など、2月20日にはほつほつほころびはじめていた。彼岸には我が家の下の桜並木の空が赤くなるほど、桜の蕾がふくれあがり、いつ一斉に咲いてもおかしくはない陽気が続き、見ているそばから蕾が割れて白蝶が羽化するように開花してゆく風情だったが、三分ほど開いたところで、27日(土)あたりから冬に逆戻りしたかのように、昼間は11℃前後、夜は氷点下になり、庭のメダカの鉢など分厚い氷が張った。3月29日には京に「桜隠し」の雪が降ったという。まさに「花冷」である。近年、彼岸が明けてから、これほど「花冷」という季題が体を通った年はなかったように思う。

打って変って4月1日萬愚節は、午後から春嵐が吹き荒れ、深夜になっても16℃を越え、風が虎落笛を鳴らし、電線を鞭のように打ち続け、今日2日の朝が明けても、桜並木はおんおん幹ごと揺れていた。歩くのもきついほどの風にも関わらず、まだ咲き満ちていないせいか、花は散ることもなく、空に雲を飛ばしてぐるぐるぐるぐる揺れ続けた。冒頭の写真はちょっとピンボケだが、風に押し倒されそうな中で撮った写真としては、これが一番実感に近い。

「花冷」の句は昭和7年の『ホトトギス雑詠全集(三)』に16句選ばれており、素十の掲出句もその中の一句である。

高野素十(たかの・すじゅう)。明治26年~昭和51年。茨城県取手市出身。本名高野与巳(よしみ)。水原秋桜子、山口誓子、阿波野青畝とともに「ホトトギス」四天王の一人として頭文字から4Sと称された。東京帝大卒。法医学を学び血清化学教室に所属し、同じ教室の先輩に秋桜子がいたため、秋桜子に俳句を学び、大正12年「ホトトギス」に投句、以後虚子に師事した。昭和32年「芹」を創刊、主宰。句集『初鴉』『雪片』『野花集』『高野素十自選句集』(村松紅花選)、『素十全集』(全4巻、明治書院)。

素十は虚子の「ホトトギス雑詠選」から生まれ、虚子の「客観写生」を邁進し、その俳句は「純粋俳句」と呼ばれた俳人である。素十以前に、虚子が別格として一目を置いた弟子は、飯田蛇笏と原石鼎の二人しかいない。蛇笏と石鼎は「雲母」と「鹿火屋」というそれぞれの主宰誌を持ってからは、「ホトトギス雑詠」への投句を止めたが、素十と青畝は、虚子が死ぬまで投句を続けた。

虚子が素十を高く評価したので、先輩である秋桜子や、「客観写生」に飽き足りなかった日野草城は、素十の句を、例えば秋桜子は「甘草の芽のとびとびのひとならび 素十」を評して【何草の芽はどうなつてゐるかということは、科学に属することで、芸術の領域に入るものではない】(昭和6年「馬酔木」)】と評し、草城は【平々凡々たるものが何かしら含蓄の深い味わひのあるものゝやうに見過られる。高野素十君の「風吹いて蝶々はやくとびにけり」の如きはこの弊害をもつともよく表はしたもので、けだし天下の愚作と断定して憚りません(昭和5年「山茶花」)】と評した。

この辺の、虚子に対する反感を素十に代理戦争を仕掛けるような真似は、さいばら天気氏が「コモエスタ三鬼」の第5回「新興俳句の夜明け」で、虚子の言説「元来広く文芸といふものには二つの傾向があります。一つは心に欲求してをる事即ち或理想を描き出さうとするもの、一つは現実の世界から自分の天地を見出すものとの二つであります。」(高浜虚子「秋桜子と素十」『ホトトギス』昭和3年12月号所収)を引いて、
主観vs客観、こころvsモノ。誤謬を怖れずさらに展開すれば、私性vs非・私性。秋桜子系の俳句と素十系の俳句の対照(あるいは対立)は、2010年の俳句のうち数多くに当てはまるように思う。
と述べているように、敷衍すれば、蕉門の虚実論争まで遡るものであり、俳人が自分の中の読者の目でそれぞれの俳句に接すれば、それぞれ一家を成した俳人であり、それぞれの佳句を楽しめても、自分の中の作者の顔で侃侃諤諤やると、水掛け論になるテーゼなので、いずれ秋桜子や草城に触れる機会も出て来るので、ここでは論じない。

閑話休題。素十の句には、鷹羽狩行の名鑑賞があるので、ここではそれを取り上げる。『カラー図説日本大歳時記』(講談社)に掲載されている。
花冷えは、桜の咲く頃に、意外に気温が下がることをいう。この句では、ちょうど爛漫と桜が咲く夜に、これこそ花冷だなと思ったが、そこに姿をあらわしたのが松明をもった花守りで、花篝の薪に火をつけ、桜の花を照らし出す。-花冷えには、あたたかい火を求める心もあろうから、あたかも花が花冷えに堪えかねて花篝を呼び出したかのような趣きがある。夜の花冷えのヒシヒシと迫る寒さ、それが一転して華やかなものに変る、その一瞬を詠みとった。
虚子の『新歳時記』に残された句は、この句と、昭和16年『新選ホトトギス雑詠全集(一)』に「花」の季題の元に収められた川田十雨(註1)の二句のみである。花冷と襖や障子を取り合せた佳句はあるのだが、「がたぴし」が虚子のツボに嵌まったらしく、結局虚子は素十の句は「花冷」ではなく「花篝」に入れたから(この選択は、鷹羽狩行の鑑賞と同じ鑑賞を虚子もしたということだ)、虚子が歳時記に残した花冷の一句はガタピシ襖のみということになる。

勿論、後世がガタピシ襖を採ることはなく、と言うと十雨句に悪いが、

花冷や剥落しるき襖の絵 水原秋桜子
花冷の夕べ日当る襖かな 岸田稚魚

といった渋い句や美しい句を選ぶ。齋藤慎爾編『必携季語秀句用事用例辞典』(柏書房、平成9年)然り、『カラー図説日本大歳時記』然り。

だが、虚子がそこまでこだわる句を何度も読んでいると、なかなか味のある句ではある。「がたぴしと入るゝ」というところに、「花冷」という季題を作者が確かに体を通したというような温もりがあるせいだろう。
素十の句にも篝守という人は登場するが、鷹羽狩行の鑑賞にあるように「あたかも花が花冷えに堪えかねて花篝を呼び出したかのような趣き」まで、作者は篝守の陰に見事に隠れている。

「花冷」は晩春の時節・気象の季題だが、歳時記の中でも美しい雅な季題のひとつであり、十雨句は雅に俗を、素十句は雅に「これこそ花冷だなと思ったが」という主観をそのまま匂い付けのように託す。

(明日につづく)


註1:川田十雨(かわだ・じゅうう)。明治28年~昭和36年。高知県出身。県立第一中学校卒業後、同郷の俳人若尾瀾水に師事し21歳で虚子門に入った。大正13年から俳号を「十雨」とし、「勾玉」創刊主宰。昭和32年高知県文化賞受賞。句会の席で心臓麻痺のため逝去。
昭和6年、大阪毎日新聞社、東京日日新聞社が募集した『高浜虚子選日本新名勝俳句』の海岸編「室戸岬」に第一位で入選したのが、

  汐けむりあがりし磯の遍路道 川田十雨 昭和5年

であり、他に6句入選している。

1 件のコメント:

意思 さんのコメント...

読みました。高野素十は知って居ましたが川田十雨はやっと知ったばかりの俳人でした。これからより深く知って行きたいです。