第13回
エアポート1937
さいばら天気
1903年12月17日、ライト兄弟は、米国ノースカロライナ州 キティホークで、飛行機による人類初の有人動力飛行に成功。最大速度48 km/hのライトフライヤー号は、この日、計4回の飛行を行い、4回目では59秒間・260メートルを飛んだ。
飛行機の誕生が現在よりわずか100年ほど前であったことに少々驚く。以来、急速な進歩をとげ、ライト兄弟からおよそ10年後には軍用機が登場(第一次世界大戦)、第二次世界大戦(1939 - 1945)には戦闘の主役となる。戦後はレシプロエンジン(プロペラ機)からジェットエンジンへ。ここまでがたった50年間の出来事なのだ。
空港の青き冬日に人あゆむ 三鬼(1937年)
空港6句(『旗』『空港』所収)のうち1句。1937年(昭和12年)は戦間期、レシプロエンジンの急速な改良進歩の時期にあたる。
航空・飛行機は、三鬼の大きな関心事であったと想像する。以下は、「飛ぶ話」と題されたエッセイ(1940年2月『俳句研究』)の冒頭近く。
フオツカー・スーパー・ユニバーサルといふ飛行機は、自動車でいへばフオードといふところだらう。簡単で、頑丈で、やたらに鋼鉄線が引張つてある。/これはローカル線と呼ばれる、東京、名古屋、大阪通ひの、旅客機といふ乗合(バスのふりがな)といつた方がふさはしい位の代物だ。/忽然と大都市の一角から現れた、六人の乗客は、大丈夫かしらんといふ顔をして、この小さな機体を眺める。(西東三鬼「飛ぶ話」(*))フォッカー・スーパー・ユニバーサル(Fokker Super Universal)は全長11.09メートル、全幅15.43メートル、操縦士2 名・乗客6名、米国アトランティック・エアクラフト・コーポレーション・オブ・アメリカが開発した単発小型旅客機。約200機が生産され、日本では中島飛行機(富士重工業等の前身)がライセンス生産した。
大日本航空株式会社は、耳の栓にする綿の塊と、耳鳴りを防ぐための砂糖菓子を、乗客に贈呈する。これを美しい少女から貰つて、初めて乗る奴は不思議な顔をするし、経験のある奴は、判つてるといふ顔をして、ポケツトに収める。(同)大日本航空は、名称の似た日本航空(JAL)とは無関係の航空会社。創業は前掲の句(空港の青き冬日に人あゆむ)より1年遅く1938年(昭和13年)。1945年8月、太平洋戦争敗北とともに解体された。三鬼の長兄武夫が副総裁を務めた会社で(≫第3回・乳香と没薬の日々)、その縁もあったのか。
冬天を降り来て鉄の椅子にあり 三鬼(1937年)
同じく空港6句のうち1句。フォッカー・スーパー・ユニバーサルによる東京・大阪間は約3時間。現在の新幹線のぞみ号と変わらない(フォッカー機の最大速度は248km/h。300km/hののぞみN700系のほうが早い)。今から思えば、ゆったりとした空の旅だ。
(明日につづく)
(*)『俳句』1980年4月臨時増刊「西東三鬼読本」
※写真は2点ともフォッカー・スーパー・ユニバーサル機。
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