ホトトギス雑詠選抄〔15〕
春の部(四月)チューリップ・下
猫髭 (文・写真)
≫承前
ところで、「チューリップ」は明治37年の『言海』には載っていない。チューリップが日本に渡来したのは江戸時代後期(文久年間)だというが、本格的に栽培されるのは大正時代に入ってからで、大正8年に新潟県で商業栽培を行なったのが普及の嚆矢と言われている。『言海』編纂当時は、まだ一般の目に触れる花ではなかったのである。「ホトトギス雑詠」でチューリップが登場するのは、大正14年から昭和2年に亘ってドイツに滞在していた中田みずほ(註2)の投句による。また、それは海外詠の嚆矢でもあった。
編物に倦まず撓まずチユーリツプ 中田みずほ 大正15年(ドイツ)
俳人の中には、俳句は日本の四季の中だけの文芸であると、海外に行っても俳句を詠まないストイックな(訳すと島国根性)人もいるらしいが、
秋風や眼中のもの皆俳句 虚子 「ホトトギス」明治36年10月
でいいではないか。もともと四季の季感にしても、日本古来の伝統ではなく、稲作のように中国大陸から接木されたものなのだから。
最後に、わたくしの好きなチューリップの句を。「ホトトギス雑詠」の句ではないが、虚子晩年の弟子、波多野爽波の一句である。
チューリップ花びら外れかけてをり 波多野爽波 「青」平成元年6月
註2:中田みずほ。明治26年~昭和50年。本名瑞穂。島根県津和野町で町長で医師でもあった中田和居の三男として生まれる。父は中田が14歳のときに亡くなり、その際、中田は父の解剖に立ち会い、大きな影響を受ける。大正6年、東京帝国大学医学部を卒業。在学中に水原秋桜子・山口誓子・山口青邨・富安風生らと東大俳句会を結成。以後、虚子に師事。29歳のとき現新潟大学医学部に迎えられる。30代で欧米に留学、H・W・クッシングや、W・E・ダンディのもとで最新の脳外科研究学んで帰国し、当時、未開拓の分野だった日本の脳外科の発展に尽す。昭和22年に脳外科研究者の基本書となった『脳手術』、同24年には『脳腫瘍』を出版。同32年現新潟大学脳研究所初代施設長。脳外科の世界的権威。「雑詠選」には数多く選ばれているが、句集は不明。(「人生のセイムスケール」参照。http://art-random.main.jp/samescale/082-1.html#m-nakata)
花盗人ほゝ笑みながら折り呉れぬ 「ホトトギス」大正15年8月巻頭句
春水のたゞ静けさに人だかり 「ホトトギス」大正15年8月巻頭句
魂のもどりし気配昼寝人 「ホトトギス」大正15年10月巻頭句
牧場は花盛りなる燕かな 「ホトトギス」大正15年10月巻頭句
腰高の障子明りに乳倉の子 「ホトトギス」昭和13年4月巻頭句
大いなる乳房仰ぎぬ乳倉の子 「ホトトギス」昭和13年4月巻頭句
乗れるだけ乗りドアを閉め花の雨 昭和14年
昔より雨降りあづき日照豆 昭和18年
萩せゝり露草もちよとせゝり蝶 「ホトトギス」昭和23年2月巻頭句
山水に乳冷しあり蝶とまり 「ホトトギス」昭和23年2月巻頭句
豊年の田明かり汽車の中までも 昭和21年
今はたゞ母なきまゝに春を待つ 昭和21年
舞茸をひつぱり出せば籠は空ら 年度不詳
寒蜆あり鯉こくは明日にせよ 年度不詳
手を出せば雨の降り居り鉦叩 年度不詳
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