2010年4月6日火曜日

●コモエスタ三鬼12 ダンスダンスダンス

コモエスタ三鬼 Como estas? Sanki
第12回
ダンスダンスダンス

さいばら天気


昭和8年(1933年)11月13日、赤坂溜池のダンスホール「フロリダ」の主任教師小島幸吉(25歳)が検挙されました。新聞には「愛欲のダンス」「暴露された情痴地獄」と煽情的な見出し。小島は教え子の女性に近づいては関係を持ち、金を巻き上げる手口で知られていたそうです(*1)

フロリダは昭和4年8月に開場したダンスホール。建築意匠や演出の独創性でたいそうな人気を集めていました。

ダンス教師が教え子の有閑マダム(死語ですね)に貢がせるなどは、スキャンダルではあっても、それが犯罪になるとは、今の私たちにはわかりかねるところがあります(よく知りませんが、ホストクラブってそうなんですよね)。法律を調べればわかるのでしょうが、すみません、その手間は端折ります。ともかく、昭和8年、東京ではフロリダだけでなく多くのダンスホールで警察による摘発が続いたそうです。

と、こう、事件を振り返ると、ダンスホールの利用客は、もっぱら金銭に余裕のある女性と思ってしまいそうですが、男性客ももちろん多い。まあ、ダンスなのですから、男女はほぼ同数なわけですが、当時のカフェのように女給さんが男性客をもてなすスタイルであったかどうか。今和次郎編・1929年(昭和4年)刊『新版大東京案内』(*2)には、
カフエで女給と馴染む迄には、銀座の一流店などでは相当の時間がかゝつて、馴染んだからといつて手を握ることも大つぴらでは今度の御法度で先づ許されぬことになつたのに、ダンス・ホールでは、ビール一本飲む金があれば人の前で堂々と手を触れ合つて、何分かの間といふもの誰れ憚らず踊り狂ふことができるのだ。ダンス熱に浮かされて、だから株屋の店員迄が着流し姿でダンスを習ひ始めるのは、成程尤もである。
とあります。

また、加太こうじ(*3)によれば、
日本では大正末から(…)社交ダンスは、ダンス・ホール以外では、踊ることを禁止されていた。とくに、東京では男女同伴でホールへ行っても、チケットを買ってホールに勤めているダンサーと、1曲チケット1枚を渡して踊ることに決まっていた。
とありますから、男性客・女性客それぞれに、女性店員、男性店員がダンスの相手をするというスタイルだったようです。



下の動画(↓)は小津安二郎監督『非常線の女』(1933年)のひとこま。音楽・ナレーションとも、後から追加したものでしょうが、この撮影舞台が、フロリダ。めずらしい動画です(YouTube、すごいですね)





で、三鬼。

シンガポールに歯医者として渡ったはずが、歯科医院の2階をダンスホールにして、もっぱらダンス教師として、熱帯の夜々を過ごした三鬼です。三鬼がジゴロだった証拠資料は目にしていませんが、それでも、昭和8年(1933年)の三鬼といえば、神田の病院に歯科部長の職に就き、俳句に手を染めた頃。その5年前にはシンガポールでダンス教師の肩書きをもっていたわけですから、銀座や赤坂のダンスホールに巻き起こったスキャンダルを、三鬼が、自分とは無縁の出来事として無関心で過ごしたとは思えません。

運転手地に群れダンゴ上階に  三鬼(1336年)

ジャズの階下(した)帽子置場の少女なり  同

三階へ青きワルツをさかのぼる  同

「フロリダ」と題された3句(『旗』所収)。

このうち「運転手地に群れダンゴ上階に」「ジャズの階下(した)帽子置場の少女なり」の2句は、シンプルな図式。上=アッパークラス・遊興、下=レイバークラス・労働。目に見えてわかりやすい図式が、簡潔に、句になっている。こういう趣向も悪くはありません。

そこで、三鬼は?というと、「三階へ青きワルツをさかのぼる」。アッパーでもレイバーでもなく、上階のワルツに吸引されて、階段をのぼる。いわば、「階層を彷徨する」がごとく。

三鬼という人は、社会的帰属のはっきりしない印象があります。客観的にというより、三鬼自身の帰属意識という点で。

(つづく)

(*1)参考≫情痴ダンスで色魔のステップ
(*2)今和次郎編纂『新版大東京案内・上』ちくま学芸文庫/2001年
(*3)『大衆文化事典』弘文堂/1991年

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