愛は石のようにそこにあるのではなく、パンのように毎日作り直さなければならない
上野葉月
ゲドでもなければ戦記でもない、というようなことは頻繁に言われているけど、英語圏ではあの作品を Earthsea series と呼ぶことが多いらしい。
とにかく読むのに難儀した印象が強い。最初「SFマガジン」に第一巻の抄訳が掲載されたのが確か1973年で最終巻 The Other Wind の邦訳が2003年だから読了まで30年以上要したわけだ。書く方も大変だっただろうが読む方だって大変だったのである。
岩波書店によれば、小学校高学年からという推奨年齢なのだけど、あれを小学生に読ませてどうするんだろうってなもの。剣と魔法の物語(そのうえ龍まで出てくる)ではあるのだけど、およそ現実にあまりにも似ている(?)と言っていいほどの地味なファンタジー。いや、私はファンタジーの良き読者ではないので何か根本的な勘違いがないとは言い切れないけど。
それにしても第二巻のテナー登場時に第四巻及び最終巻がこのようなものになるとは作者自身も予想つかなかったはずだ。第四巻、最終巻でのテナーはまるでアガサ・クリスティにとってのミス・マープルのように作者自身の分身のような印象を与える。
一方でアーシュラ・K・ル=グウィンの作品が夫婦愛(?)という主旋律に沿って展開するのを見るのは珍しいことではない。
あの世界中のSFファンの度肝を抜いた『闇の左手』をつかまえて夫婦愛うんねんする読者はさすがにいないだろうけど、ハードSFと見なされている『所有せざる人々』(この邦訳タイトルもかなり酷い部類のような気がする)はあきらかに夫婦愛の物語に見える。
そしてなにより『天のろくろ』。主人公が灰色になってしまった配偶者の手を取って「君は褐色であるべきだ」と言う忘れがたい場面。米国的というのではなくパリの匂いを嗅ぎ取ってしまうのは私だけではないと思う。そう言えばジブリアニメ『ゲド戦記』に関してル=グウィンが自身のホームページで言及したとき、まっさきのアレンやゲドが白人に見えることをクレームしていたような記憶がある。
忘れがたいと言えば、異星人の古物商からビートルズ『With a Little Help from My Friend』のEP(SFだなあ)を渡されるラスト。ビートルズで一曲だけ選ぶとしたらという多くの人を悩ませる設問(十曲ぐらいに絞るのならともかく一曲となると)に対して、『天のろくろ』を読んで以来『With a Little Help from My Friend』と即答するようになったのはかくいう私である。
読書と言うよりなにか人生そのもののような鈍重な苦さを覚える Earthsea series だけど、第四巻で農夫のおかみさんとして長い年月過ごし寡婦となったテナーが、力を失い負傷した姿となったゲドと久しぶりに邂逅ししたのち彼との会話の中で「男たちって、なんて妙なんだ」と思うところはまるで作者自身のつぶやきのようで、アーシュラ・K・ル=グウィンのような一大知性にとってすら男は謎であり続けたのだと感慨深い。小説とは心地よい裏切りを読者にもたらすものだという感覚に酔った瞬間でもあった。
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