二十句選 4/4
野口 裕
≫本誌・林田紀音夫全句集捨読
16 屋根を重ねてみどりごがとろとろ煮え (p101)
第二句集の特徴として、子の句が頻繁に登場することが上げられるだろう。我が子かわいいという点は、通常の吾子俳句と同じだが、この幸せがいつ壊れても不思議ではないという危機感が底にあるために、句中に異常な幻想を孕む場合がしばしばある。「みどりごがとろとろ煮え」は、スウィフトのやたら長いタイトルの諷刺文「アイルランドの貧民の子供たちが両親及び国の負担となることを防ぎ、国家社会の有益なる存在たらしめるための穏健なる提案」、略称「穏健なる提案」を連想させる。(「林田紀音夫全句集拾読」から)
17 青さす夕空電線は家深く入り (p106)
この句は、拾読では見落としていた。ほんのり赤みを帯びた夕空を「青さす」と、地と図を入れ替えて表現する妙。視線を遠景から近景へと引きつける小道具としての電線。細心に配置された構図である。七五七と音数の逆転も効果的。無季の写生句。
18 綾とりの朱の弦強く子に渡る (p108)
拾読の段階で、何を言おうとしていたのか、若干わかりにくい。おそらく、この句の調子は紀音夫の句らしからぬところがあり、それが有季定型句につながると判定したのだろう。紀音夫らしからぬとしても、句意明快な印象に残る句である。
綾とりの朱の弦強く子に渡る
綾とりの母子に水の夜深くなる
彼にしては珍しい素材。二句目はいつもの調子に戻っているが、一句目はさらに珍しく詠嘆がない。この方向を追求して行けば、いわゆる有季定型の概念におさまる句になるだろう。生きている間であれば、それがどうしたこうしたというのも意味があるだろうが、いま読みつつある心境としてはそれがどうしたこうしたは言いたくない。(「林田紀音夫全句集拾読」から)
19 竹のびて内耳明るむしじまあり (p113)
思えば、叙景+感慨の典型的有季定型句に近いものが巻末近くに置かれていた。「内耳明るむしじま」が、作者にとっては自明の感覚であり、読者にとっては興味引く表現でありながら、手探りしてたどり着かねばならないような不思議な措辞。
第二句集『幻燈』の最後に並べられている世界は、
義肢伴なえば油槽車に極まる黒
足萎えの暦日芝生傾いて
凶年を終る声あげ転倒し
足萎えていよいよひびく掛時計
など、作家の脚部疾患を思わせる句で占められている。これらの中で、
竹のびて内耳明るむしじまあり
乳房かしましく鳥獣日溜りに
骨の音加えメロンの匙をとる
など、聴覚を伴う句にひかれるものが多いのはたんなる偶然だろうか。身構えていた姿勢にふっと無防備になるような瞬間が訪れるようで、こわばっていたものが溶けていくような感覚がある。(「林田紀音夫全句集拾読」から)
20 街騒に読経加わり血の透く耳 (p114)
第二句集以後の未発表句の大群を読むと、紀音夫の興味が仏教に傾いてゆくことがわかる。それは仏教思想への傾斜ではなく、日常生活の中にある仏教習俗への関心であり、作者自身も仏教習俗への体験を重ねてゆく。そうした句の嚆矢として、この句はある。読経によって、身体感覚を取り戻してゆく感覚を「血の透く耳」とした表現に冴えが見られる。
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16 屋根を重ねてみどりごがとろとろ煮え (p101)
第二句集の特徴として、子の句が頻繁に登場することが上げられるだろう。我が子かわいいという点は、通常の吾子俳句と同じだが、この幸せがいつ壊れても不思議ではないという危機感が底にあるために、句中に異常な幻想を孕む場合がしばしばある。「みどりごがとろとろ煮え」は、スウィフトのやたら長いタイトルの諷刺文「アイルランドの貧民の子供たちが両親及び国の負担となることを防ぎ、国家社会の有益なる存在たらしめるための穏健なる提案」、略称「穏健なる提案」を連想させる。(「林田紀音夫全句集拾読」から)
17 青さす夕空電線は家深く入り (p106)
この句は、拾読では見落としていた。ほんのり赤みを帯びた夕空を「青さす」と、地と図を入れ替えて表現する妙。視線を遠景から近景へと引きつける小道具としての電線。細心に配置された構図である。七五七と音数の逆転も効果的。無季の写生句。
18 綾とりの朱の弦強く子に渡る (p108)
拾読の段階で、何を言おうとしていたのか、若干わかりにくい。おそらく、この句の調子は紀音夫の句らしからぬところがあり、それが有季定型句につながると判定したのだろう。紀音夫らしからぬとしても、句意明快な印象に残る句である。
綾とりの朱の弦強く子に渡る
綾とりの母子に水の夜深くなる
彼にしては珍しい素材。二句目はいつもの調子に戻っているが、一句目はさらに珍しく詠嘆がない。この方向を追求して行けば、いわゆる有季定型の概念におさまる句になるだろう。生きている間であれば、それがどうしたこうしたというのも意味があるだろうが、いま読みつつある心境としてはそれがどうしたこうしたは言いたくない。(「林田紀音夫全句集拾読」から)
19 竹のびて内耳明るむしじまあり (p113)
思えば、叙景+感慨の典型的有季定型句に近いものが巻末近くに置かれていた。「内耳明るむしじま」が、作者にとっては自明の感覚であり、読者にとっては興味引く表現でありながら、手探りしてたどり着かねばならないような不思議な措辞。
第二句集『幻燈』の最後に並べられている世界は、
義肢伴なえば油槽車に極まる黒
足萎えの暦日芝生傾いて
凶年を終る声あげ転倒し
足萎えていよいよひびく掛時計
など、作家の脚部疾患を思わせる句で占められている。これらの中で、
竹のびて内耳明るむしじまあり
乳房かしましく鳥獣日溜りに
骨の音加えメロンの匙をとる
など、聴覚を伴う句にひかれるものが多いのはたんなる偶然だろうか。身構えていた姿勢にふっと無防備になるような瞬間が訪れるようで、こわばっていたものが溶けていくような感覚がある。(「林田紀音夫全句集拾読」から)
20 街騒に読経加わり血の透く耳 (p114)
第二句集以後の未発表句の大群を読むと、紀音夫の興味が仏教に傾いてゆくことがわかる。それは仏教思想への傾斜ではなく、日常生活の中にある仏教習俗への関心であり、作者自身も仏教習俗への体験を重ねてゆく。そうした句の嚆矢として、この句はある。読経によって、身体感覚を取り戻してゆく感覚を「血の透く耳」とした表現に冴えが見られる。
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