橋本 直
ゼクシィのCMで、樹木希林さんが
やっぱり一人がよろしい雑草、やっぱり一人じゃさみしい雑草
とつぶやいている。これは山頭火の句のアレンジで、元の句は、
やつぱり一人がよろしい雑草 (第四句集『雑草風景』昭和十一年所収)
と
やつぱり一人はさみしい枯草 (第五句集『柿の葉』昭和十二年所収)。さすがに独り身を「さみしい枯草」とすると反感買うと思ったか、二句目を変えている。なんだかアンサーソングのようだがこういう大衆的な作りかつ口語調なのが山頭火がCMコピーに使える理由なのかな。深い孤独感をうたう人なら他にもいるけれども五七五はCMで使いにくい。山頭火自身は『柿の葉』巻末で二句を並記して、
「自己陶酔の感傷味を私自身もあきたらなく感じるけれど、個人句集では許されないでもあるまいと考へて、敢て採録した。私のかうした心境は解つてもらへると信じてゐる。」
とやや言い訳めいた文言。
山頭火句は自我の分裂の自覚と葛藤と甘えが作品のテーマにあたると思うけれども、この二句もおそらくとても内輪の、私信のような意識が背後にあって詠まれ、句集に採録されていると思われる。当然自己模倣も甘えの関係の中にゆるされてある。
結局その生き様と作品がセットになって高度成長後に彼の味となって世間にウケてきた。こういうウケ方をすると嫌な人はいやだろう。
実はきちんと理論的に句を考えていた山頭火の意識の中での不易流行と、実際に彼に起こった不易流行がかみ合わないのは、志もプライドも高かった御本人には悲劇なのかもしれないけども、世間を読み過ぎて失敗する作家より幸福かもしれん。
現在俳句外の人に最も読まれる明治以降の作家であることはもうちっと俳句の内側の人に評価されていいとも思う。
0 件のコメント:
コメントを投稿