2011年12月20日火曜日

〔ネット拾読〕17 スプーンのかたちに眠りたい

〔ネット拾読〕17
スプーンのかたちに眠りたい

西原天気





西村麒麟・モテキみたいにキョシキって言ったら虚子忌みたいだね 6:spica
http://spica819.main.jp/kirinnoheya/4686.html
週刊俳句(最近書いてませんが)やきりんのへやでボタンを連打しまくったせいか(…)
週刊俳句でも書いてください。
教授「西村君、プラトンの全集とかがでると、翌年ガクッと学生の学力が落ちるのです、自分の力で調べなくても簡単に答えが手に入るからです、人間は良かれ良かれと思い文明を進化させますが、悲しい事に大切なものを失ってしまうのです、悲劇ですねぇ西村君、ね、西村君、四年大学に居たって何にもできやしないのですから、ギリシア悲劇でも読んではどうですか?西村君、…入門書なんて、読まなくて良いです、西村君、狂気の無いものは信じなくて良いのです…」
そうそう。便利と幸せはまったく関連がないですね。

便利になってうれしい、というのは、一種の錯覚です。


結社/結婚 by @tajimaken
http://togetter.com/li/229222

「結社と結婚は似ている」と田島健一氏がツイート。私が「似てない」と応答したところ田島氏が解説。ツイッターも、たまにはいいことが起こります。
既に結婚している人は、結婚した方がいいか、そうでないか、とはあまり考えない。そういう選択肢自体が前景化してこないですね。結社もそうで、結社に入っているひとが、結社に入るべきか、そうでないか、とはあまり考えない。(田島健一)

(…)結婚も結社も、自分と対象との関係性だけだと捉えられがちですが、実はえらく面倒くさい第三者的なものを抱え込むことになるところも似ています。むしろ、その面倒くささを受け入れるために結婚したり結社に所属したりするようなところもある。(同)

(…)「快適な新婚ライフ」や、俳句上達のための「快適な俳句ライフ」っていうのは、ま、少し続けていると幻想だということがわかる。そういう意味では、「ご愁傷様」ですね。(同)


湊圭史・『俳コレ』など:詩客「俳句時評」第32回
http://shiika.sakura.ne.jp/jihyo/jihyo_haiku/2011-12-16-4524.html

『俳コレ』についてのの記事もウェブ上にポツポツと出てきています(参照≫邑書林によるリンク集)。
全体の印象はリラックスした「個性」の展示というおもむき。「新撰」シリーズにあった、俳句史と対峙してやる、みたいなエッジはなさそうですが、これはこれで楽しめそうです。(湊圭史)
エッジの有無は置くとして、『新撰21』『超新撰21』にあった「世に問う」感は、『俳コレ』には薄い。湊圭史の言う「「個性」の展示というおもむき」はかなり的確な印象評と思います。

付言すれば、「世に問う」という側面で、「俳句のオトナ降臨」と帯に銘打たれた『超新撰21』は少し微妙な立ち位置を余儀なくされた。『俳コレ』のリラックス感は、先行2点との差別化という意味でも、心地がよい。

ただ、忘れてならないのは、『新撰21』『超新撰21』という先行が存在するからからこその『俳コレ』、ということ。

先行2点との差別化(そこにはリスペクトの意味合いもあるはず)という点では、装幀のテイストが大きく変わったことに加え、各作家が見開きスタートとなったこと。体裁上の差別化が、読み手にとっておそらく大きいと思います。


三物衝撃のテンプレート :みしみし 三島ゆかり俳句日記2.0
http://misimisi2.blogspot.com/2011/12/blog-post_16.html

「二物衝撃」という用語は「取り合わせ」くらいに解しておいたほうがよいと考えています。「衝撃」なんて言うと、作ってるほうがヒロイックに酔っちゃいますから。もちろんただ並べるわけではなく、そこになにがしかの効果があるから、そこに着目するわけですが、その効果が「衝撃」の効果とも限らない。エイゼンシュタインのモンタージュなわけですし、ね。

だから、2つとか3つとか数にこだわるのはあまり意味がないと考えています。

A【a1〔路地裏を〕-a2〔夜汽車と思ふ〕】-B【金魚かな】

a1とa2がモンタージュされ、そのセットであるAが、Bとモンタージュされる。「全体」を構成する「部分」の中にも取り合わせがあり、それが全体となってもう一つの部分と取り合わせの関係になる。部分と全体が固定されるわけではない(まあ、いわばホロン?)。

上に挙げた構造図も、これと決まったものではありません。A【a1〔路地裏を夜汽車と〕-a2〔思ふ〕】というモンタージュに解することもできます。

俳句は、意味と無意味の調べ、音の調べというふうに言えるわけで、音符が2つとか3つとかと単純化して読まれるわけがないのです。これに先行テクスト/他テクストをバックグラウンドとして響かせるという効果が加わることもあるわけですから、ますます「数」では済まなくなります。

ま、上記、三島ゆかり氏の記事では、あえて単純化という方法を採っているのでしょうが、単純化しすぎると、たちまち飽きてきちゃいますよ、俳句なんて。


今週の本棚・この人この3冊:塚本邦雄=穂村弘・選
http://mainichi.jp/enta/book/news/20111218ddm015070014000c.html

いまさらながら塚本邦雄『百句燦燦』(講談社文芸文庫)は必読。


で、そろそろ今年を振り返ることも多くなってきておりまして、

荒川洋治:『図書新聞』最新号からの引用
https://twitter.com/#!/deja_lu/status/147997004071575553
おおきな災害のあと、大量の、たれながしの詩や歌が書かれて、文学「特需」ともいうべき事態となった。[…]これは「詩の被災」であり、「ことばの被災」である。
被害者は「詩」であり「ことば」。ちょっと引っ掛かる把握ではあります。では、加害者は?



最後に、俳句から離れて。

ネットでこんなことを言うのもなんですが、手紙(snail mail)って、いいものですよね、という。

工藤公康さん。:古賀史健のBLOG
http://office-koga.com/2011/12/13/kudo/

めちゃくちゃええ話やん!

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