2011年12月3日土曜日

●脳内処理費用 野口裕

脳内処理費用

野口 裕


アンドリュー・パーカー『眼の誕生――カンブリア紀大進化の謎を解く』を読んだときに、一番へえとなったのは、洞窟などに棲息する生物での眼の退化の理由だった。

退化という言葉は語弊があるので適応といった方が良いのだろうが、そうした言葉の問題はともかくとして、眼球から受け取った情報は、そのままでは使えず脳内で処理する必要がある。この処理に必要なエネルギーが結構高くつく。眼をなくして物を見ない方がエネルギーを消費せずに済むので腹が減らない。エサの少ない洞窟内では、腹が減らない方が生存に有利である。というような流れで視覚が押さえ込まれてしまう。そんなことが書いてあった。

そういえば、将棋に凝っていた頃、将棋道場に丸一日いると昼食や夕食を普通に取っているにもかかわらず、体重が前日よりも2kgほど減った。指し手を考え込んでいるときに、脳がやたらエネルギーを使っているということなのだろう。詰将棋の作成にのめり込んだ結核患者が、寝ても覚めても将棋盤が頭から離れず命を縮めてしまった逸話があるが、これも脳の消費するエネルギーが馬鹿にならないことを証明しているだろう。

脳がエネルギーを消費することは理解されにくい。それを示す証左のひとつとして、「マックスウェルの悪魔」が誕生してから悪魔の不在証明に至るまでの歴史を上げることができる。詳しくはウィキペディアの「マックスウェルの悪魔」の項を読んでもらえればよいが、簡単にまとめると以下のようになる。

1. 分子の運動を観察できる悪魔が存在すると仮定する。
2. 悪魔のために、空気の入った箱を用意する。箱の中には沢山の分子が含まれている。
3. 分子の中には、ゆっくり動いているものもあれば、激しく動いているものもある。
4. 箱に仕切りを設け、仕切りには開閉自由の窓を付ける。
5. 窓を閉めたときは、分子は仕切りを通り抜けることができない。
6. 窓を開けたときは、分子を仕切りを通り抜けることができる。
7. 仕切りの左側に、ゆっくりした分子を、右側に激しく動く分子を集めたい。
8. その目的のために、悪魔は分子の動きを監視する。
9. 右側にあるゆっくりした分子が仕切りの左側に移動しようとするときは、窓を開けてやる。
10. 左側にある激しく動く分子が仕切りの右側に移動しようとするときは、窓を開けてやる。
11. 左側にあるゆっくりした分子が仕切りの右側に移動しようとするときは、窓を閉める。
12. 右側にある激しく動く分子が仕切りの左側に移動しようとするときは、窓を閉める。
13. これを続けて行くと、仕切りの左側にゆっくりした分子が、右側に激しく動く分子が溜まる。
14. ゆっくりした分子の集合は温度が低い。
15. 激しく動く分子の集合は温度が高い。
16. 仕切りの左側は低温、仕切りの右側は高温になる。

もし、マックスウェルの悪魔がこの仕事をするのにエネルギーを使わないなら、電気代のいらないクーラーや冷蔵庫ができることになる。そんな馬鹿なことは起こりえない。マックスウェルがこれを考えついた1867年から今日まで、そのことに異論をはさむ者はいない。問題は、どんなやり方をしても悪魔がエネルギーを消費してしまうことをどうやって証明するかにかかっている。そのことに一世紀以上の年月がかかってしまった。

最新の証明によれば、エネルギーを使わずに窓の開閉はできる。また、悪魔が分子を観測するのにもエネルギーを消費せずに済ませることもできる。エネルギーが消費されるのは、一つの分子の開閉作業から次の分子の開閉作業に移るときの脳内作業の切り替えの瞬間に起こる。次の作業に移るために、どうしても前の作業を「忘れる」必要がある。「忘れる」と、その瞬間にエネルギーが消費されてしまうのだ。

マックスウェルの悪魔の脳内を模した電気的な装置を作ろうとした場合、このエネルギー消費の瞬間はジュール熱の放出ということになるので、はなはだ理解しやすい。この最新の証明で、マックスウェルの悪魔には一応の決着がついたとみることができる。

だが、個人的には心穏やかならざるところがある。マックスウェルの悪魔の脳内でエネルギーが消費されるのは、「考える」ではなく、「忘れる」ことで起こるというところだ。もちろん、「考える」ということが何を指し示すかはよく分からない。しかし、丸一日将棋に取り組んで減った体重2kg分のエネルギーが、良い手を考えついたことによるものではなく、悪い手を思い浮かべては捨てる瞬間に起因すると言われているようで、面白くはない。これは、人情というものだろう。

おそらく事態はもう少し複雑なはずで、記憶することにエネルギーが全く消費されないとは考えにくい。それは今後の、マックスウェルの悪魔にかかった年月以上の時間をかけねばならないだろう。マックスウェルの悪魔を手がかりとして、脳が馬鹿にならない量のエネルギーを消費することが理解できるようになったことだけでも良しとしなければならない。

 海底に眼のなき魚の棲むといふ眼の無き魚の恋しかりけり 若山牧水


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