2013年12月18日水曜日
●水曜日の一句〔五十嵐義知〕関悦史
関悦史
木の扉軋みて青葉時雨かな 五十嵐義知
「青葉時雨」は、青葉した木々に降りたまった雨がぱらぱら滴り落ちることをいうらしい。個人的には、大江健三郎の『「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち』以来なじみ深いイメージだが、季語としては使ったことがなかった(いろいろあるものだ)。
ただし句中の「青葉時雨」は大江作品のような寓意を担っているわけではない。
「木の扉」は加工されて建材となったとはいえ、元は木であって、いくばくかの生命感は残る。
「軋む」となると、声をあげているようでもあって尚更だ。
いわば「道具」と「生物」の中間にあるような物件だが、そうしたことを感じさせるのは、それと照応しあう「青葉時雨」も中間的な要素、つまり、青葉としての生命感を湛え、水滴を散らしながらも、今現在雨が降っているというわけではなく、青葉自身が水を湧きださせたものでもないという時差と変容の要素を含んでいるからである。
はっきりとは描かれていないが、作中の語り手が木の扉を押し、結果として揺れた木から滴が散ったと取るべきなのだろうか。それとも扉は風か自重で勝手に軋んだだけなのか。
「押せば軋みて」「開けば軋み」といった書き方がなされていれば語り手の動作によると明瞭にはなるが、この語り手の希薄さも「木の扉」「青葉時雨」の中間性にふさわしいものと思える。
扉となった木と、雨滴を散らす青葉とが湛える二種類の異なる時間の経過感と、清冽ながら静かに混みあう生動感を掬うには、こうした希薄な主体の浸透が必要とされたのだ。
句集『七十二候』(2013.12 邑書林)所収。
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