2015年4月14日火曜日

〔ためしがき〕 「俳句とは詩の特攻である」という警句に対するひとつの解釈 福田若之

〔ためしがき〕
「俳句とは詩の特攻である」という警句に対するひとつの解釈

福田若之


竹岡一郎『ふるさとのはつこひ』(ふらんす堂、2015年)は、たしかに好みの分かれるところかもしれないけれど、個人的には好きな句も多く、読み物としてよくできていると思う。

けれど、あとがきに記された「俳句とは詩の特攻である」(190頁)といういささか迂闊にも思える警句については、正直なところ、僕には解釈抜きには受け入れることができなかった。やはり、一般に解釈とはそのままでは受け入れることができないものを受け入れることができるように書き換える作業のことなのだと思う。

では、どうして僕にはこの警句をそのまま受け入れることができないのか。それは、この警句を前にして二つの疑念が生じるからだ。

一つ目の疑念は、次のようなものだ――俳句を書く人が「俳句とは詩の特攻である」という言葉を発することは、特攻を美化することになりはしないか。

「特攻」と書いて「ぶっこみ」と読む類のものであるならばまだしも許容できるかもしれないけれど、歴史にいまでも禍々しく刻まれているあの特別攻撃のことであるとするなら、「俳句とは詩の特攻である」という言葉を解釈抜きでそのまま飲み込むことはどうしてもできない。

いずれにせよ、「特攻」という言葉は、それが攻撃である以上は、敵の存在を、したがって、争いの存在を前提としている。また、「特攻」は、この言葉の歴史的な背景によって、争いの犠牲者のことを思わせずにはおかない。

「特攻」という言葉のこうしたバックグラウンドによって、二つ目の疑念が生じる――詩はどんな争いのために犠牲にならなければならないのか。詩がある争いの犠牲になるとして、その犠牲は俳句によって生まれるのか。

僕には、これら二つの疑念を解消することがどうしてもできない。こうした疑念を前に、僕は自分の思考が痙攣するのを感じる。

この思考の痙攣状態を解消するには、二つの疑念を取り除く必要がある。手っ取り早いのは、言葉を見なかったことにすること、考えるのをやめることだ。けれど、これらの疑念は、言葉それ自体の問題というよりは、むしろ、「特攻」という単語をめぐる僕自身の読みの問題であるように思われた。そして、もしそうであるなら、考えないよりは考えたほうがいいに違いない。だから、「俳句とは詩の特攻である」を受け入れるために、これらの受け入れがたさをなくすように「特攻」を解釈することができるか、検討してみようと思う。

その取っかかりとなるのは、「句集の題は坂口安吾の「文学のふるさと」による」(189頁)という記述である。このあとがきには、「特に胸に沁みている部分」として、坂口安吾が「我々のふるさと」は「むごたらしく、救ひのないもの」 だと書いている箇所が引用されている(同)。そして、「そういう処に立脚するのが文学であるなら、私にも出来ると思ったのである」と書かれている(同)。

さらに、このあとがきには、俳句について、「詩の特攻」とは別の定義として、人によっては「日本のなつかしい山河」だという定義が可能であろうことが示された上で、しかしながら、「それは私のための答ではない」とも書かれている(190頁)。

つぎに、安吾の文章の文章を確認すると、その主旨は、文学のふるさとはモラルの側にはなく、むしろアモラルの側にあるということであるのが読み取れる。安吾は、「大人の仕事」としての文学がモラルの側に身を置くものだとしても、そのふるさとがアモラルの側にあるということの自覚を失ってはいけない、そのアモラルなふるさとに対する自覚こそが文学にとって欠けてはならないモラルなのだ、と主張している。

おそらく、安吾のこのモラルとアモラルの対比は、ニーチェの『悲劇の誕生』における、秩序と混沌、文化と野蛮、アポロン的なものとディオニソス的なものの対比ともつながるものだろう。

これで、解釈のためのパズルのピースは揃った。

まず、「なつかしい山河」が「ふるさと」という語が通常喚起するイメージであることに注目したい。それに対する「特攻」は、たしかに「むごたらしく、救ひのないもの」である。そしてまた、それは僕らのふるさとに否応なく刻まれた過去の一部でもある。

だから、「俳句とは詩の特攻である」とは、「俳句とは詩にとっての野蛮でアモラルな原型であり、すなわち、詩に対して自らのアモラルな出自をつねに思い出させようとするものである」ということを意味しているのだと、解釈できる。そう解釈するならば、もはやこれは特攻の美化でもなければ、敵の存在を前提とするものでさえもなくなる。

その場合、ここであえて「特攻」の語を隠喩として用いることは、アドルノの「アウシュヴィッツ以降、詩を書くことは野蛮である」という名高い警句と同様の意識の反映として読み解くことができる。当然ながら、「特攻」を隠喩として用いる事ができるのは特攻以後のことである。特攻以後にしか、俳句は「詩の特攻」ではありえない。「文学のふるさと」を発表した1941年8月の安吾には、いかなる特攻も知りえなかったのだ。だから、その「文学のふるさと」を前にしながら、文学の野蛮でアモラルな原型をあえて「特攻」と呼び変えることは、太平洋戦争の野蛮な歴史をあえて自らの手で引き受けることを意味しうる。

このようにして解釈すれば、これは、現代の詩の野蛮さの、あるいは現代の俳句の野蛮さの内部告発にほかならない。こうしてようやく、「俳句とは詩の特攻である」というアモラルな警句は、一つのモラルとして受け止めることができるものになる。

しかし、どんな解釈、どんな消化を経たとしても、やはり、これは僕のための答えではない。もちろん、「日本のなつかしい山河」だなどと言うつもりもない。目下のところ、僕は、なんらかのただしがきを抜きには「俳句とは」などと語ることはできそうにない。

3 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

すぐれた着眼ですね。俳人たるもの一語の背景を踏まえず安易に使うべきではないという基本でしょうか。
弁護ともいえる解釈論もさすがですが、論理展開にはやや違和感があります。特攻のアモラル性は決してデュオニュソスではなく、むしろ狂ったアポロンによるシステムの贄というべきもので、どちらかというとモラル側にあるといえるでしょう。テレビや映画で特攻が美化され続けていることからも、多くの日本人は特攻を実質的にモラルとして受け取っていることがわかります。アモラルなはずの特攻がなぜモラルになるのか、それは自分をシステムの側に置くか、個人の側に置くかということによるのです。そう考えると、「俳句はシステムの尖兵である」との読みも可能になります。
…実際には、身を投げ出した実験である、くらいの意味なのだとは思いますが。

福田若之 さんのコメント...

特攻のアモラル性は「狂ったアポロン」のそれであるという見解、とても興味深いと思いました。

安易に書いてしまうこと以上に問題なのは、安易に読み終えてしまうことであるという気がしています(自戒も込めて)。「俳句とは詩の特攻である」という言葉を、表面だけ取って批判することは、たぶん易しい。ですが、竹岡さんはそこで自身の表現を賭けているわけですから、それを安易には批判できないと思うんです。この言葉がこうして書かれたことには、たぶん背景がある。それを、実際にどれほど読み取れるかどうかはともかく、読んでみようとすることは大事なことのはずです。これは、そのための一解釈だと思っていただければ幸いです。

福田若之 さんのコメント...

誤字があったので、修正を加えました。
「デュオニソス」→「ディオニソス」