2015年4月7日火曜日

〔ためしがき〕 寓話 福田若之

〔ためしがき〕
寓話

福田若之


地球とよく似たひとつの惑星を想像してほしい。

宇宙から見ると、表面には海が広がっていて、そこに無数の島や大陸がある。地球と比べると、地続きになっているところが多い。海も比較的浅く、上手くすれば島から島へ歩いて渡ることができるだろう。

陸に下りてみよう。地表の大半は草や木に覆われているのだが、そこに、無数の道が、無尽蔵に張り巡らされているのに気づく。

道を辿っていくと、行き止まりには、鼬のような姿の、しかし、首が180度さかさまを向いている生き物がいて、その目がこちらを向いている。さらによく見ると、両前足に鋭い刃のようなものが生えていて、 この生き物はその刃で草を刈り、道を作っていたのだと知れる。この生き物の見た目は、首がさかさまを向いている以外の点で、地球のとある島国に伝わる妖怪、鎌鼬の絵姿によく似ているのだった。

この生き物は自分の前方を全く見ることができないのだが、後方は遠くまで見ることができる。彼らは、切り拓かれた道の上でしか生きていくことが出来ないので、必要に応じてそうやって道を作る。彼らは前に進むとき、自分が切り拓いてきた道や、仲間が切り拓いてきた道を見ながら、自分の進む先に何があるのか、推測するぐらいのことはできる。

だが、前が見えないまま進むというのは危険には違いない。だから、この危険を冒すことをやめ、自分がある程度切り拓いた道や、あるいは、別の個体がすでに切り拓いた道に留まって、居つく者たちも多い。そうした者たちは、もはや前に向かって歩くことをやめ、自分の首が向いているほうに、つまり、後ろ向きに歩く。足の刃物は両刃ではないので、そのようにして歩くと、草を刈ることはできないのだが。

こう書くと、後ろに向かって歩く者たちは、前に向かって歩く者たちに一方的に寄生しているように思われるが、そうではない。前に向かって歩く者たちも、後ろに向かって歩く者たちも、彼らの生活空間を保つ上で重要な役割を果たしている。

というのも、前に向かって歩く者は、新しい道を作り続けるが、古い道を踏み慣らすということをしないので、新しい草が生えるとそこが覆われて再び住めなくなってしまうということがある。別の前に向かって歩く者がそこをまた通るかどうかは分からない。なにしろ前が見えないのだ。後ろに向かって歩く者たちは、古い道を踏み慣らして、新しい草がそこを覆ってしまわないようにするのである。このように前に向かって歩く者と後ろに向かって歩く者とが共に自らの役割を果たしているほうが、全員が前に向かって歩くよりも、ずっと効率がいいのだった。

土の中から切り拓かれた地表に飛び出してくる者たちがいる。やはり鼬によく似た姿で、首も前を向いており、足に刃もついていないのだが、大きなシャベルのような腕を持っている。彼らは普段は地中で暮らしている。星の地中には彼らの栄養になる液体がたまっていて、それを飲んで生きている。彼らは日光を浴びたくなると、しばしば、切り拓かれた地表に向かって飛び出してくるのだが、そのときに、液体が彼らの掘った穴を通って地上に噴き出すことがある。首の逆さについた者たちも、その液体を飲んで生きているのだった。首の逆さについた者たちが拓かれた道を保ち続けなければならないのは、草木があると地中の者たちはその根に阻まれて地上へと出ることができないからである。地中の者たちと首の逆さについた者たちとは、共生関係にある。

地中の者たちもまた、切り拓かれた土地を新しい草が覆ってしまわないことに貢献している。彼らは、退屈しのぎや気晴らしのため、また、ときにはある種の禁断症状のために、太陽を浴びに地上へ出てくるわけだが、彼らが太陽を浴びてそこに転がっているあいだは、そこには決して草が生えることはない。前に向かって歩く者は、自分がかつて切り拓いた道の上で地中の者たちがそれぞれの仕方で太陽の光を浴びているのを遠くに見ながら、なおも前に向かって歩き続ける。

ところで、地中の者たちは、通常はそのままの姿で一生を終えるのだが、ときに、脱皮して姿を変えることがある。実は、このときの姿が、首の逆さについた者たちなのである。だから、それらは、見た目は違っていても、結局は同じひとつの生き物なのだった。

こんな生態系が、この惑星のあらゆる島、あらゆる大陸の全域に存在している。そして、前に向かって歩く者たちの中には、島すべて、大陸すべてを開拓し、やがては彼らの生きる世界から完全に飛び出したいとさえ夢見ている者もいる。しかしながら、惑星は球形であるため、地表をいくら切り開いても、この星を出ることはできないのである。

さて、そろそろ種を明かして、この寓話が適当かどうか、判断してもらうことにしよう。無数の陸地とはそれぞれの言語の、前に向かって歩く者とは言語を開拓する書き手の、後ろに向かって歩く者とはすでに開拓された言語を用いかつ守る書き手の、地中の者とは読み手の隠喩であり、この惑星の名を、テクストという。

   

この寓話を書いているとき、僕に鎌鼬のことを思い出させてくれたのは、竹岡一郎『ふるさとのはつこひ』(ふらんす堂、2015年)の次の一句と、この句集の裏表紙側の遊び紙に描かれている鳥山石燕風の鎌鼬だったように思う。

世を憎む少女の息が鎌鼬   竹岡一郎

SF的な構想を語る、というふりをしながら、読み手や書き手などについて考える、というふりをしながら、僕は、実のところ、ただこの句を僕なりに覚えておきたかっただけなのかもしれない。

寓話とは、おそらく、記憶術の産物である。

1 件のコメント:

竹岡一郎 さんのコメント...

拙句、ご鑑賞いただき、誠に有難うございます。拙句が、斯くも不思議な博物誌のきっかけになりましたこと、大変光栄です。
鎌鼬の句と言えば、
あかあかと飼ひ馴らすべし鎌鼬  黒田杏子
を思い出します。
「あかあかと」を「明々と」と読むならば鎌鼬の鎌の輝きを思わせ、また「赤々と」と読むならば鎌鼬に戯れられた飼い主の傷を思います。「べし」に、鎌鼬を飼い馴らすに必要な飼い主の胆力を考えます。
角川の俳句大歳時記では、筑紫磐井さんが鎌鼬についての体験談を記しています。「筆者は幼時に鎌鼬にあったが、伝説通りぱっくりした傷が開きながら、血がほとんど出ず痛みもなかった。不思議なことである。」
また、磐井さんには、
鍵穴をぬけてあやふし鎌鼬    磐井
という、鎌鼬の伸縮自在な形態を想起させる句があります。鍵穴と鎌鼬の鎌が一瞬触れる金属音が聞こえてきそうです。
逆柱いみりさんに「鎌鼬を描いて下さい」とお願いしましたところ、裏見返しに描いてくれたものです。夏の明るい午後、己が風で独楽を回して遊んでいる、暢気な鎌鼬でありました。俳人にはまず描けない、逆柱さんらしい鎌鼬であります。