2015年4月29日水曜日

●水曜日の一句〔竹岡一郎〕関悦史



関悦史








抱きをればだんだんもがき出すむじな  竹岡一郎


むじなは季語にもなっているが、生物学的な分類で何を指すのかは判然としない。そのまま妖怪の名にもなっている。

そのむじなをなぜか抱いている。「だんだんもがき出す」というからには初めはおとなしくしていたらしい。次第に違和感と緊張が高まる過程にあるが、「抱きをれば」なので、つかまえて抑え込んだという雰囲気ではない。いつからか共にあり、しかし自分の一部であったり、自分と同一のものであったりはしない、そういう対象としてむじなはある。

その点、自分の意のままにならない「無意識」の暗喩のようにも見えるが、個人の潜在意識のようなものと取るとつまらない。抱かれている「むじな」はまずその手触りにおいて自分の延長ではないし、怪談的な想像力を発揮させる獣であることを思えば、近代以前の共同体や、そこでの先祖たちの暮らしへの連想をも含んでいるといえる。坂口安吾「文学のふるさと」への言及のある句集に収められている句であること思えばなおのことだ。

このむじなは、漱石「夢十夜」に出てくる、背負っているうちに百年前に殺した相手とわかり、途端に重みを増す子や、小泉八雲の「貉」において次々にあらわれるのっぺらぼうのように、触れあいながら生きている対象が、いつのまにか、増大していく不穏さそのものへと転じる過程としてあらわれている。しかし一句は、カタストロフにまでは至らない。宙吊りのままである。

そもそもなぜ今までむじななど抱いていたのかという問いが出て来ざるを得ないが、これは、なぜ自分がこういう家にこのような存在として生まれてきたのかとという問いと同じく、気がついたらそうなっていたとしか言いようがない性質のものだろう。親の代からの因縁と同じく、むじなはとにかく、温かくもどこか気味の悪い関わりのあるものとして初めから自分とともにあった。

それが人生というものなのだとまとめてしまえば全てがただの寓意に終わってしまうが、一句はそうした意味づけへの着地も拒み、ただ増大する不穏さに宙吊りにされ、耐えるのみである。

その軋轢のなかにも一種の愉楽のようなものは確かにある。それこそ獣に触れているような性質の、いわく言いがたい愉楽。句集のなかでは地味な作だが、この句はそうしたものに触れている。


句集『ふるさとのはつこひ』(2015.3 ふらんす堂)所収。

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