2019年10月5日土曜日

●土曜日の読書〔読書、ある〈貧しさ〉との戦い〕小津夜景



小津夜景








読書、ある〈貧しさ〉との戦い

この「土曜日の読書」は週刊俳句からの依頼ではなく、わたしがやらせてほしいとお願いしてはじめた連載である。はじめた理由は読書がしたかったから。わたしは本が嫌いで、なんの強制もなく読書することができない。それで強制の機会をつくってみたのだ。

それはそうと、どうして本が嫌いなのか。それは、たぶん、読みたいのに読めない期間が長すぎたからだと思う。つまり俗にいう卑屈である。罪のない本に八つ当たりしているわけだ。実家にいたころも、結婚してからも、わたしが読書すると周囲は嫌がった。病弱だったからだ。本当に誰ひとりいい顔をしない。暴力的な手段で禁じられ、監視されていたこともある。世話する方は地獄だったことだろう。が、世話される方もまた地獄だった。

けれどもわたしは本が読みたかった。誰にも気づかれないように事に及ぶ方法はないものか。そう作戦を練りつづけて、おのずと辿りついたのが詩歌の世界である。詩歌であれば、ほんのちょっとした隙に、数行をぱっと盗み読むことができる。またしずかに眠っているふりをして、盗みおぼえた作品を心の中で確認し直すこともできるだろう。そんなジャンルが他にあるだろうか。

わたしが詩歌にのめりこんでいったのは、こうしたやむにやまれぬいきさつだった。フランスに来てからは、10年以上一冊も新しい本を読まなかったのだけれど(これはお金がなかったのも大きいけれど)、そのあいだもずっと空を見ているふりをしながら、頭の中にあるなけなしの詩歌を、真剣に反芻していた。ただのひとつも忘れないように。

で、いまの話に戻って、ここ数年はぴんぴんしている上に、この連載のおかげで毎週かならず本にさわっている。こんな生活は30年ぶりである。30年前は親元を離れて入院していた施設に立派な図書室があったので、誰からも干渉されず本だけは読むことができたのだ。

とはいえ我慢に我慢を重ねてきた時間が長すぎて、読書に対する天真爛漫なよろこびというのはいまもってわからない。わたしにとっての読書とは、さまざまな〈貧しさ〉との戦いの記憶とあまりにも分かちがたく結びついてしまっている。

本当は大好きと言えるはずだったのに、そしていまでもきっとそうなれるはずなのに、いざ頁をひらくとかつての怒りと悲しみがこみあげて、涙が頬をつたう読書というもの。そんな大嫌いな読書が、わたしに対してつかのま優しくなるのは、たとえばこんなささやきを思い出すときだ。

「書物」

この世のどんな書物も
きみに幸せをもたらしてはくれない。
だが それはきみにひそかに
きみ自身に立ち返ることを教えてくれる。

そこには きみが必要とするすべてがある。
太陽も 星も 月も。
なぜなら きみが尋ねた光は
きみ自身の中に宿っているのだから。

きみがずっと探し求めた叡智は
いろいろな書物の中に
今 どの頁からも輝いている。
なぜなら今 それはきみのものだから。
(ヘルマン・ヘッセ『ヘッセの読書術』草思社文庫)


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