2019年10月19日土曜日

●土曜日の読書〔抽斗〕小津夜景



小津夜景








抽斗

いまこの部屋に、何を入れてもいい自分用の抽斗がある。

その抽斗に、ふだんはとっておきたいモノを何でも入れている。切れた豆電球。狂った目覚まし。道や海に落ちていた羽根、石、枝、シーグラス、植物のかけら。街路樹の押し葉。細切りにして鳥の巣っぽくまるめた紙。先の曲がったフォーク。計量カップの把手。点かないライター。はずした洋服のタグ。乗り物の半券。ほかいろいろ。

ある夜、抽斗をあけると、ランプの当たり方のせいか、どことなくモノたちの雰囲気がいつもと違っていた。まるで生きているかのように、ぴょんぴょん目に飛び込んでくるのだ。

これ全部、なんでここにあるんだっけ。

モノたちのようすにとまどいながら、ふとそう思った。知り合いからもらったモノについては、ここにある理由がはっきりしている。問題はそれ以外だ。自分用の抽斗は2段しかないから、すべてのモノをとっておけるわけではない。どうしても優先順位をつけねばならず、つまりわたしはふだんから究極の取捨選択と知らず知らずのうちに向き合っているはずなのだ。

だが夜も遅いので、何も考えずに寝ることにした。

あかりを消して、仰向くと闇である。耳栓をしているから音もない。眠りに落ちるまでのつかのまは、鼓動の拍を耳の骨で感じ、音ならざる音としてそれを聞いている。
我々が洞窟の入り口を眺める時(冬には鴉がそこに巣をつくり、時には何かに驚いたようにカアカア鳴きながら空へ舞い上がる)そこに見えるのは、単なる真暗闇ではない。鍾乳石や石筍を、さらには天井や壁の凹凸を心の中で光らせ、その燐光を頼りに進んで行くのである。無論、その光は日暮れのように朧気だが、我々はたしかに明るさへの途を歩んでいるのだ。我々はむしろ夜明けを思う。洞窟が与えてくれる第一の教訓は、夜など存在しないということである。(ピエール・ガスカール『箱舟』書肆山田)
時間という壮大な抽斗の中は、行き方しれずになったモノやヒトでいっぱいだ。もしかするとわたしは時間の地質学者になりたいのかなあ。ピエール・ガスカールが教えてくれた、かすかな光を伝うやり方で。あるいは完全な闇の時は、遠すぎて見えない星を想い、胸の火を焚きつけて。あいかわらず鼓動の拍は、ざり、ざり、と砂を刻むようにくりかえし、わたしはそれを聞いている。そして砂の上を、一足ずつゆっくりと辿りつつも、しだいに足をとられ、色も香りもない抽象的な時間そのものに埋もれてゆく自分の光景を夢のとばぐちから眺めていた。


0 件のコメント: