2019年10月26日土曜日

●土曜日の読書〔文章に惚れる〕小津夜景



小津夜景








文章に惚れる


そこそこ惚れっぽい友達がいて、たまに会うと目下好きな人の話を聞かされる。

あのね、さいきんほにゃららさんのことが好きなの。むかしはそう言われるたびに、へえ、あの人のどこがいいんだろう、好みってのはいろいろだなあと感心していたのだけれど、つきあいが長くなるにつれて、ふうん、人を好きになるのにそんな角度があるんだ、とずいぶん勉強させてもらっていることに気づいた。

ひとつ当たりさわりのない例をあげると、友達は文章の上手い男性に弱い。先日も好きな人から来たというメールを見せてくれたのだが、コンマの打ち方、間合い、文量のセンスが絶妙である。なるほど、これなら現実世界でひどい男性だったとしてもしょうがないか、と思えるくらいに。

実のところ、惚れられやすい文章、というのは存在すると思う。ここでいう「惚れられやすい文章」とはあくまでも俗な意味なので、芸術的才能にあふれたものは除外して考えてほしい。本人が魅力的だったり有名だったりという場合も、どこからどこまでが文章の力なのか判断が難しいので考慮しない。仕掛けのはっきりした文章も、魔法がただの手品に堕したものとして無視しよう。そういった様々な手口なしで、文章だけで惚れられるというと、いまふっと、小沼丹の名が思い浮かんだ。
夕方近くになって、金魚のことを思い出したから、雪を踏んで小川迄行ってみると、寒い風の吹く洗い場に片腕の女の人が蹲踞んで泣いていた。片手で目を押えて、肩を震わせていたようである。足音で此方に気附いて、女の人は泣くのをやめて洗濯を始めた。傍に洗濯物の入った手桶があったから、洗濯の途中で泣いていたのだろう。
それを見たら、その女の人が可哀そうでならない。何だか此方が急に大人になって、先方が子供になったような気がした。何とか慰めてやりたい気分になっていたら、お神さんが此方を向いて、
ーー暗くなるから早くお帰り。一番星が出たよ……。
と云った。途端に此方は子供に逆戻りしたから、物足りなかった。小川には金魚もいなくなっていたから、うん、と点頭いてそのまま帰って来たが、そのとき一番星を見たかどうかは覚えていない。
(小沼丹「童謡」『埴輪の馬』講談社文芸文庫)
巧みすぎず、文章にこれといった秘密のなさそうなところが、たぶん色っぽい。いま「たぶん」と書いたのは小沼丹がわたし好みの作家ではないからなのだけれど、それでもこういう佇まいを好きな人がいることは想像がつく。

わたしもまた上手い文章というものに弱い。が、この場合の「上手さ」の定義についてはこの上なく狭量だ。するすると一本の線から生まれてきた風景のような、安西水丸のイラストっぽい文章が目の前にあったらきっと惚れるだろう。けれど、そんなシンプルかつスタイリッシュな文章にはなかなか出会わないし、残念なことに安西水丸の文章もぜんぜん安西水丸のイラストっぽくないのだった。


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