2019年11月23日土曜日

●土曜日の読書〔なつかしい土地〕小津夜景



小津夜景








なつかしい土地

試着室の前に立ち、オリーヴ色の帆布のカーテンをじっと見つめていると、イリナが内側からカーテンをいきおいよくあけて、わたし、ロシアに帰ることにしたの、と言った。

片手でカーテンをつかみ、両脚をクロスさせて、革製のワンピースでポーズをとる目の前の女性が、わたしに相談もなくロシアに帰るとはとうてい思われない。だってわたしたち、とても仲がよいのだから。だがイリナはもういちど「帰ることにした」と言い、硝子の粉をかぶったのかと疑うくらい透きとおる顔色でこちらを見つめている。それでわたしにも、あ、これは本当に帰るな、とわかった。

ワンピースの入った紙袋をさげ、イリナの部屋へゆく。小さなバルコンに出て、ロシア人の密集地域ってどっちにあるんだっけとたずねる。イリナは、あっちのほう、と指にはさんだ煙草で指し示してくれる。

「そこ行ってみたいな」
「止したほうがいいよ。排他的だから」
「へえ」
「もう少しなんとかなってほしいんだけど。どの国の人も、国籍で固まって住むとかえって難しい状況になるわ」
「ん。どうだろうねえ」
「ねえ、この国で死ねる?」

突然、イリナがわたしにたずねた。わたしは地球で死ねるのだったらどこでもいい、この星全体がわたしのなつかしい土地なのと答えた。するとイリナは、わかる、わかるよ、わかるけど、でもやっぱりここで死ぬのがわたしは怖いの、ロシアに帰ったって故郷もなければ家族もいないのにふしぎだねと呟いて、バルコンの棚にのせた植木鉢の根方に煙草の吸殻を落とそうとした。急に指先の灰がまくなぎのようにぱっと舞い上がった。そしてふいをつかれたわたしの胸元でつかのま風に撓んでみせたかと思うと、細い棒をはいあがる花蔓を避けてふわりと地面に散った。その無表情な灰の散華は、在るべき場所を追われ、ゆくあてを見つけられないとまどいの中でにわかに生き絶えたもののようだった。
故郷はまさに環世界の問題である。なぜなら、それはあくまでも主観的な産物であって、その存在についてはその環境をひじょうに厳密に知っていてもほとんどなんの根拠も示せないからである。問題は、どんな動物が故郷をもち、どんな動物がもたないかである。シャンデリアのまわりのきまった空間部分を行ったり来たりかすめ飛ぶイエバエは、だからといって故郷をもっているわけではない。これとは反対に、クモは巣をつくり、たえずそこで生活する。この巣はクモの家であるとともに故郷である。(ユクスキュル、クリザード『生物から見た世界』岩波文庫)
ヒトは故郷をもつ動物だ。わたしもヒトである以上、イエバエ同様シャンデリアのまわりを死ぬまで飛びつづけるのは、うーん、ちょっといやだ。けれども、この地球全体がわたしのなつかしい土地であると信じ、故郷の概念を押し広げさえすれば、いつか来るべき悲しみは存在しない。だから、とりあえず、そう信じることにしている。


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