2025年6月13日金曜日

●金曜日の川柳〔おだかさなぎ〕樋口由紀子



樋口由紀子





冬に濃くなる牛乳が兄だった

おだかさなぎ

近所の牛舎に毎朝やかんを持って生乳をもらいにいくのが子どもの頃の私の役目だった。搾りたての生乳は濃厚で二度と味わえない特別のものだった。冬の牛乳はより濃厚なのだろう。季節指定である。フィクション性を伴って、兄の存在がモノとなって浮かびあがってくる。

私は二人姉妹の姉の方で兄はもともといない。だから、兄に対して夢見心地のところがあり、謎でもある。「兄」を喩えるのに「冬に濃くなる牛乳」ははじめて読んだ。憧憬しているのか、畏怖しているのか、それとも。愛すべきではあるが、少々ややこしそうである。実体としてははっきり摑めないが、「兄」はもういいかなと思ってしまった。『川柳ねじまき』第11号(2025年5月)収録。

2025年6月11日水曜日

西鶴ざんまい #80 浅沼璞


西鶴ざんまい #80
 
浅沼璞
 
 
 廻国に見る芦の屋の里    打越
人恐ぢぬ世々の掟の鶴の声   前句
 下馬より奥は玉の摺石    付句(通算62句目)
『西鶴独吟百韻自註絵巻』(1692年頃)

【付句】三ノ折・表12句目。 雑(神祇)。 下馬=下馬すべき所。聖域への乗馬を禁じた下馬札(げばふだ)のある下馬先。参考〈鬼神も下馬鶴の羽音ぞ大矢数/西六〉 玉の摺石(すりいし)=玉砂利。

【句意】神社の下馬先から奥は玉砂利を敷きつめた参道(である)。

【付け・転じ】前句の掟(生類憐みの令)を神社の制札(禁令)に見替え、さらにそれを下馬札に限定した。

【自註】此の下馬、*御朱印地の宮居のありさまにして付寄せ侍る。一ノ鳥居のほとりに**札立て置きて、***神山の花・とり(鳥)をおどろかす事、かたくきんせい(禁制)、是によつて、****東路の道者、落書せざりき。
*御朱印地の宮居=幕府から御朱印状により社領を与えられた格式ある神社。
**札(ふだ)=制札。境内の禁制を記した木札。下馬札もそのひとつ。  
***神山(かみやま)=神社の領域内の山。 ****東路の道者(どうじや)=関東筋の団体巡拝者。

【意訳】この句の下馬札は、御朱印地の神社のありさまをもって付け寄せています。一の鳥居のあたりにこの札を立てておき、神域の花や鳥にいたずらすることを固く禁じ、これによって関東筋の巡拝者も(俗習である)落書きをしなくなった。

【三工程】
(前句)人恐ぢぬ世々の掟の鶴の声

  一ノ鳥居に禁制の札   〔見込〕
   ↓
   一ノ鳥居に下馬札のあり 〔趣向〕
   ↓
  下馬より奥は玉の摺石  〔句作〕

前句の掟から神社禁制の木札を連想し〔見込〕、〈どのような制札か〉と問うて、下馬札と限定し〔趣向〕、下馬先から奥の玉砂利の参道をもって句を仕立てた〔句作〕。
 
 
英一蝶さんの没後300年展でも落書が画題になってて、鳥居や仁王門にいたずら書きをする巡礼たちが面白おかしく描かれてましたが……。
 
「物詣の衆がな、かたみ(=記念)にな、己れの名なんぞを書くんやが、肩車して鳥居の高いとこに書いたり、長い棒に筆をくくりつけてな、仁王さまのおみ足へ柵越しに落書したりしてな、ほんに罰当たりなことや。冥加おそろしきことや」
 
それで禁令のお札が……、けど、そういう鶴翁も神仏を擬人化して茶化してますが……。
 
「……」
 
まただんまりですか。

2025年6月9日月曜日

●月曜日の一句〔金子敦〕相子智恵



相子智恵






疾走の猫に抜かるる大神輿  金子敦

句集『ポケットの底』(2025.5 ふらんす堂)所収

印象鮮やかな一句だ。神輿は担ぐ人に注目されて詠まれる句が多いが、この視点は新鮮である。

神輿は大勢で「わっしょい」「せいや」などの掛け声で、小刻みに足を動かしながら練り歩くので、あまり早く進むものではない。大神輿であればなおさらだろう。担ぎ手は御旅所の神酒で酔っぱらったりしながら、大勢で賑やかに進んでゆく。

その脇をすり抜けていく〈疾走の猫〉。猫同士の喧嘩か、何かから逃げているようだ。祭の熱狂にお構いなしに、一気にしなやかに疾走してゆく。

普段はゆっくり眠ることが多い猫の疾走と、神輿を担ぎ、掛け声のリズムにトランス状態になっていく祭りの人々。疾走する猫によって、不思議と「祭りらしさ」「熱狂」がさらに強調されてくるようだ。

また、猫と神輿の組み合わせによって、下町の風情が感じられてくるところもいい。

 

2025年6月6日金曜日

●金曜日の川柳〔川合大祐〕西原天気



西原天気

※樋口由紀子さんオヤスミにつき代打。



巨大化したフジアキコ隊員(TVシリーズ「ウルトラマン」第33話:1967年2月26日)を見た瞬間の、あのザワザワした心持ち。


それ自体はセクシーでもセクシャルでもないのに、それに類する感情に強烈に支配される、あの感じを、当時も今もうまく言語化できない。けれど、当該の経験を記憶する当時の十代(男性)は多いようだ。フジ隊員の巨大化は、神話、というと大袈裟だけれど、重要なエピソードになっている。

砂漠から巨大舞妓が立ちあがる  川合大祐

舞妓という女性性の強い職業にある人なのに、性的な要素があまりない。それは、砂漠という設定と舞妓のきらびやかな衣裳があまりにも不釣り合いで、突拍子もない(ポップでシュールな絵画のようでもある)からだ。あまりにも無縁な組み合わせのなかで、この「立ちあがり」は、あまりにも唐突なので、「性的」その他、ある種分化した感情を惹起させない。未分化の感覚に訴えかけ、恐怖でも魅惑でもなく、ただただ驚かせる。

舞妓が座位から優雅な挙措で身を起こすのを、おお! と見上げるばかりで、その前後にも背後にも、物語などはなく、脈絡も理由も顛末もない。それゆえ、これは、圧倒的な出来事なのだ。

なお、「巨大娘(Giantess)」は、古代、例えばギリシャ神話の女神ガイア以来、時代と場所を問わず連綿と続くモチーフだそうで、この舞妓も、その系譜に入る。

掲句は川合大祐句集『ザ・ブック・オブ・ザ・リバー』(2025年5月/書肆侃侃房)より。