乗用車1台を食べ尽くす豚の話
さいばら天気
前回、5月31日の〔ネット拾読〕03「鳴らなくなったアンプを叩いて鳴らす」で、春日武彦『奇妙な情熱にかられて―ミニチュア・境界線・贋物・蒐集』(集英社新書・2005年)を注文したと書いた、その数日後に入手。この本が、まあ、おもしろいおもしろい。
関悦史さんの紹介記事(豈weekly第40号)では俳句との絡みが中心となっているが、俳句が出てくるのは全体のほんの一部。副題にもあるとおり、ミニチュア・境界線・贋物・蒐集の4つの話題から「リアル」(あくまで著者にとってのリアル)を叙述。それぞれが「ことば」と密接に結びついているところがミソ。そのあたりはかいつまんで説明できかねるので、この本に当たってください。
で、隠れキーワードを挙げるなら「キッチュ」。著者はヘヴィで目利きのキッチュ嗜好者と思しく、キッチュへの関心のある人なら、まちがいなく楽しく読めます。
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●ウェブの収益化は不可能なのか? 相次ぐサービス停止と日本のウェブについて(追記あり) 2009-6-2 from metamix
http://www.metamix.com/4037.php
インターネットの各種無料サービスがつぎつぎと停止されつつあるという、ニュースのまとめ。
週刊俳句もこのウラハイも blogger という無料ブログサービスを利用しているのはご承知のとおり。創刊前、どこのブログサービスにするか決めるときの基準のひとつ(優先順位上位)が「サービス停止にならないこと」。bloggerはグーグルの運営、グーグルなら当分は潰れないだろうし、ぱたっとサービス停止ということもないだろうし、どこか別の会社に買われてシステムが大幅変更となる(掲示板その他サービスのOTDがライブドアに買われた例)こともないだろう、との読みからですが…。
さて、どうなんでしょう?
無料サービスが停止になったらなったで、なんとかなるんでしょうけど。
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ところで結社サイトはどのくらいあるのか。想像もつきませんが(多いという意味ではなくて)、最近は、よく整備されたサイトも目につきます。結社サイトは基本的に、結社メンバーをまず読者に想定し(掲示板などは内輪の連絡・コミュニケーション)、それから広告(結社への興味の入り口)機能を持たせたものですが、入会する気のない部外者にも、使い道はあります。例えば、主宰の句が毎月掲載されるサイトはひじょうに有り難い(マンスリーで覗いているサイトが私にもあります)。
で、この6月1日にリニューアルしたのが…
●銀化俳句会 http://ginkahaiku.web.fc2.com/
豊富な情報量です。
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●『林田紀音夫全句集』読書会 2009-6-4 from 海馬 みなとの詩歌ブログ
http://umiuma.blog.shinobi.jp/Entry/565/
週刊俳句で「林田紀音夫拾読」を連載中の野口裕さんも参加の読書会(5月31日・大阪)の模様を伝え、含蓄。
野口さんも単純に句の評価ではないものを紀音夫の後期の作品に見ようとしておられるようで、なぜ紀音夫に興味をもつのか、という質問に、「姿勢」と答えておられたのにはなるほどと唸らされました。この「姿勢」は(もっとよい言葉があるのかも、と思いますが)、「境涯」と「作品(テクスト)」に分裂しがちな詩歌評・論において、その両側へと落ち込んでしまわないために保っておいたほうがよい視点である気がします。
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さて。
●テクスト論やらポストモダンやら 2009-6-3 from Tedious Lecture
http://haiku-souken.txt-nifty.com/01/2009/06/post-e8b2.html
~やら~やら、ってw
分けて分けてー。
テクスト論とポストモダンはとりあえず違うもんだし、別の場所で展開してるし、別のほうがいいし。
なお、テクスト論に関するくだりは、俳句の具体的な業績を挙げて、きちんと膨らませていただいていますが(秋尾敏氏の『子規の近代』はおっしゃるとおり良いお仕事です。加えて『虚子と「ホトトギス」』も)、要旨は、私が週刊俳句第110号「『俳句』2009年6月号を読む」の脚注で書いたこととほぼ同じ(自分がトンデモないことを書いたわけではないことが確認できて安心しました)。
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ポストがどーした、モダンがどーしたの話題については、週刊俳句第111号(はじめてのフィーバー。もっぱら確変)に上田信治氏の記事がアップされ、併せて「里」掲載の参照記事を転載。
●上田信治「ポストモダンについて 今言えそうなこと」 2009-6-7 from『週刊俳句』第111号
http://weekly-haiku.blogspot.com/2009/06/blog-post_2593.html
俳句に関連させたポストモダンの話題がこれからまだ発展していくかどうかはわかりませんが、なんだかぐじゃぐじゃの不毛に陥らないためにいちばん必要なのは、スキームです。
この記事は、『知った気でいるあなたのためのポストモダン再入門』(高田明典)を典拠に、話題・問題を整理して、クリアカット。とりわけ、ポストモダニティ(ポストモダン状況)、ポストモダニズム(ポストモダン思想)、ポストモダン(思潮における時代区分。「モダンの後に位置する(今は分からない)何か」、ポストモダンX(ポストモダン建築、ポストモダン文学、ポスト構造主義等の、ポストモダンの要素を持つ文化的現象)の4概念を峻別したところ、有意義です。
ちなみに、文化流行としてのポストモダンは、4つめの「ポストモダンX」に引きずられる傾向があります(どうしても目の前に供される料理のことに話題が行きがち)。
上田氏の記事は断章スタイルをとりながら、典拠のサマリー、自身の見解披瀝ともに網羅的・構造的だから、全文をていねいに読むのがよいのですが、ひとつ、俳句に絡めて興味深い指摘を抜き出すなら…
・「無意識のポストモダニズム」は、多くのすぐれた俳人に共有される素質であるように思う。…という部分。続いて、その背景・理由として、3点が挙げられる。
・それは俳人が、他ジャンルの文学者に比べて、近代的進歩の幻想から自由だからかもしれないし。1点目は、俳人である前に20世紀を暮らした人間であることからすれば(それは雑駁な反証にすぎないことはわかったうえで)、それほど説得力をもつように、私には思えない。
・定型それ自体が、定型に対する「問い」を生むものだからかもしれない。
・俳近現代人にとっては、俳句が、そもそも古典的詩形というものを選択するところから、「あえて」「わざわざ」やるものだからかもしれない。
2点目は、季語も含め、根源的な指摘だと思う。
3点目は、榮猿丸さんのスタンスのことが頭に浮かんだ。
猿丸●そう。発見といえば、文語や歴史的仮名遣いも同じじゃないかな。最初から歴史的・伝統的文脈を踏まえているわけではなく、まさに「萌え」的な感じで(笑。ともかくも、稔りの多い記事ですが、一点、若干の曖昧さが残るのは次の箇所。
「サバービアの風景・前篇」in『週刊俳句』第60号
・「現代」が、単なる「今という時代」の別名であれば、それを「ポストモダン」と呼ぶことは、言葉の定義上できない。「今という時代」の次に来るのは、常に、次の「今という時代」だから。「現代」のあとに来るものは「現代」。「モダン」のあとに来るものは「モダン」。(同 p.66)だから、モダンとは単に「今という時代」のことではない、ということなら、明快。論の流れからすれば、そうだとは思うが。
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このところの俳句とポストモダンについて言及したブログ記事がいくつか見つかります。例えば神野紗希氏の2記事。
●浅利×白ワイン 2009-5-31 from 鯨と海星
http://saki5864.blog.drecom.jp/archive/421
でも、俳句において、もしポストモダンがやってくるとしたら、それは「季語」の問題と絶対に関わってくるんじゃないかな。季語を「大きな物語」とまで言ってしまっていいのかはちょっと疑問だけど、俳句にあきらかなポストモダンが訪れないのは、逆にいえば、信じるべき季語体系が、手放されずに手元にあるからなんじゃないかなあ。季語を「大きな物語」とまで言ってしまって「いい」と私は考えています。いずれにせよ、季語・季題の問題は射程に入ってこざるを得ない。俳句史上の前衛俳句/無季俳句という「モダン」を含めて。
●ポストモダン追記 2009-6-2 from 鯨と海星
http://saki5864.blog.drecom.jp/archive/422
素材と文体を峻別する必要性を指摘して有益。
このところ漠然と話題にのぼる「新しい俳句」についても同様。
余談めくが、なりゆきとして榮猿丸氏の句が素材方面の例示として俎上にのぼること、たびたび。このへん御本人には不本意かもw
「猿丸さんの句のいいとこは、実は素材じゃないんだよ」という記事は、以前「ウラハイ」に書いた。↓
●宅配ピザのある暮らし http://hw02.blogspot.com/2009/01/blog-post_24.html
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