2009年6月20日土曜日

●シネマのへそ11 サッド・ヴァケイション 村田篠

シネマのへそ11
『サッド・ヴァケイション』 
(2007年 青山真治監督)

村田 篠


つい先だって、『ハゲタカ』の物語性について書いた。この『サッド・ヴァケイション』にも物語はある。けれどもこの映画のそれは、『ハゲタカ』のように人物の行動を裏付けるための物語ではなく、「ただ、そこにある物語」だ。どうしてその人がそうするのかを説明することなく、その人がそこにいて、なにをするのか、どう思うのか、どう変わっていくのか、を伝える。

青山監督の「ただ、そこにある物語」として圧巻だったのは、やっぱり『EUREKA』(2000年)だったと思う。公開時、ほぼ4時間の長尺におののいて劇場へ行かなかったのだけれど、のちにDVDで観て、圧倒された。バスジャック事件に遭遇してしまった主人公たちとその周囲の人たちに起こるできごと、変わってゆく関係、壊れてゆくなにかを淡々と映し出す画面は、もうそれ自体、なんとも得体の知れない「不安」そのものだったが、主人公たちを追うカメラはゆるやかに、促すことも急かすこともなく、見守る速さであり続けたのが印象的だった。

『サッド・ヴァケイション』はその続編という作りだけれど、「不安」から180度の向こう岸にある、奇妙な「ゆるぎなさ」が描かれている。そして、この「ゆるぎなさ」にもまた、説明がない。主人公の母親(石田えりの怖ろしいばかりの怪演)のもつこの「ゆるぎなさ」がどこから来るのかよく分からないまま、観客はそれを見つめるしかない。
それはもしかしたら、「これが女というものか」というくくり方をされたらかなり抵抗を覚えるたぐいの「ゆるぎなさ」なのだけれど、それなのに、「それ」をただ見つめるしかないという愉楽――といって言い過ぎならば、体験――は、もう、どこまでも〈映画〉なのであって、思わずリビングの床に大の字に寝そべってしまうのであった。

それにしても、浅野忠信。分厚くなった顎の線だけで「中年」を体現したのは、監督の手柄か、本人のもつ存在感か。「ただ、映画の中に居続けて」いる役者にとっては、年をとることも「役者としてのありよう」のひとつだ、ということを、しみじみ感じさせてくれた。
「ただ、映画の中に居続ける」役者というと、西島秀俊もそういうタイプ(『2/デュオ』〈1998年 諏訪敦彦監督〉とか『ニンゲン合格』〈1999年 黒沢清監督〉とか、ほんと忘れられない)だと思うけれど、彼の場合はもう少しファンタスティックな部分を残している分、いろんなことができそうな気もする。

どちらも、これからどんどん年をとりながら、どんどん映画に出続けてほしい。


「さすらう男たち」度 ★★★★
「圧倒する女たち」度 ★★★★★


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