2009年6月21日日曜日

〔ネット拾読〕田ん圃のむこうにサイゼリアの見える風景

〔ネット拾読〕06
田ん圃のむこうにサイゼリアの見える風景

さいばら天気


先週、ホタルの画像を紹介しましたが、こんなアプローチも。
http://plaza.rakuten.co.jp/sinmik/diary/200906150000/
from 日々,子持ち。

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先週の話題の続きをもうひとつ。村上春樹に頻出する「やれやれ」に関して、おもしろい記事が見つかった。

村上春樹的「やれやれ」の源流を探る 2009-6-9 from BUNGAKU@モダン日本
http://blogs.yahoo.co.jp/nonakajun/53833234.html

小説における「やれやれ」使用について直近の起源、というか先代を庄司薫「白鳥の歌なんか聞こえない」に見出しているところがミソといえばミソ。庄司薫→村上春樹という流れは周知で「類似」や「影響」への指摘は数多い(どの程度正当か的確かはさておき)。

余談ですが、庄司薫「赤頭巾ちゃん気をつけて」(1969年)のあと、ラジオの深夜放送へのハガキの文体(口調)がやたら「赤頭巾」調になったという指摘が『〈盗作〉の文学史~市場・メディア・著作権』(栗原裕一郎・新曜社・2008年)にあり、なるほどと。自分もその年代なので、身に覚えがないわけではない。それに比べると、昨今のインターネットの文体・話法(2チャンネルに顕著)は、クールだなあ、と(註1)

ま、クールはちょっと買いかぶり過ぎかも。と書いてから思った。

で、オマケ ●iq84の村上春樹
http://moukaru.livedoor.biz/archives/51222214.html

記事はたった3行ですが、随所にコクがあります。

お約束のように「iq(アイキュー)」。登場人物の箇所。…「くらい」ってw

ちなみにこのブログ、スパムブログの一種(誰かがどこかをクリックしてくれたら小銭が手に入るかもしれない、といった手合い)と思しいが、それでも、コクがあるんだから、コクとは、出自やこころざしや意義とは無関係に生じるということですね。

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さて、俳句関連では、俳句甲子園の予選の報がちらほら。

北海道ブロック大会 2009-6-14 from 無門日記
http://blog.livedoor.jp/mumon1/archives/51179704.html
うつりき 2009-6-14 from B.U.819
http://819blog.blog92.fc2.com/blog-entry-295.html

 * * *

一方、大学生関連では、たいへん興味深い勉強会の記事。

東大俳句会勉強会「文体」 2009-6-14 from wwwqpwww
http://ameblo.jp/wwwqpwww/entry-10280943205.html
蛇笏は(…)切れの文体について。とりあえず、バッキバキに切れてますね、この時期。という感じ。(…)切れ字率に驚き。「や」30%「かな」26%だとか。(…)句またがりが少ない、とか。オリジナリティよりベスト俳句を目指している感、よく分かりました。

智哉は(…)身体・時間・茫漠・緩衝・省略・当然・助詞・写生のキーワードから考察。因果関係(取り合わせだけど繋げちゃう感)や助詞マジックをとても感じる。
第1回勉強会6月 2009-6-15 from 東大俳句会ブログ
http://ameblo.jp/haiku-u-tokyo/entry-10280733801.html
(…)「文体」を中心に据えて、現代の作家の中で特徴的な"茫漠"とした世界を持つ鴇田智哉とそれと対照的に"古典"の中で堅牢な句風の飯田蛇笏をテキストに選びました。
さらに、生駒氏による鴇田智哉分析。

『こゑふたつ』 2009-6-18 from 東大俳句会ブログ
http://ameblo.jp/haiku-u-tokyo/entry-10282646342.html

上記勉強会の梗概メモながら、鴇田智哉俳句のエッセンスを伝えています。



(註1)
文体(俳句の文体ではありません。為念)については、次の記述も。

●植草甚一本が届いた 2008-7-31 from ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ
http://abecasio.blog108.fc2.com/blog-entry-284.html
千野帽子さんの原稿は植草→野崎『ライ麦』の影響下に庄司薫や村上春樹、昭和軽薄体の文体が開花し、それが現在のライターたちの「男子カジュアル文体」に継続する、としている。
これは『植草甚一 ぼくたちの大好きなおじさん』(晶文社編集部・2008)所収(と思しき)千野帽子の一文に触れた部分。野崎孝訳のサリンジャー『ライ麦でつかまえて』の文体(口調)が1970年代以降の青春文学に大きな影響を与えたことは了解事項と言っていいと思うが、植草甚一も、背景にあるのか、と、私にはちょっと新鮮。

(千野帽子氏は、『俳句』2008年4月号の特集「「切れ」についての大問題」に寄せた「復本一郎『俳句と川柳』を再(誤)読する」が記憶に残っています。おもしろい切り口でした)

ブログの書き手・阿部嘉昭氏はさらに…
喋り口調を文体に移す傾向はワープロ→パソコンと筆記用具が移行し、「喋るように書く」風潮がつよまったのち、さらにブログやSNSがメディアとして生じ、もはや文章書きの完全な趨勢になってしまった。
…と捉える。先に書いた「昨今のインターネットの文体・話法(2チャンネルに顕著)は、クールだなあ」とは異なる捉え方にも思える。単純にいえば、昭和軽薄体のインターネット文体への浸透度。これについては、ブログ・日記文体と(2チャンネル等の)片言文体とは、はっきりと別のもののように思う。前者=昭和軽薄体(ウラハイのこの記事もあえて範疇化すればそこに入るのだろう)、後者=言うなれば「平成片言体」。

2 件のコメント:

猫髭 さんのコメント...

村上春樹の「やれやれ」に触れられた時、村上春樹のWikipediaにすら「カート・ヴォネガット、ブローティガンらのアメリカ文学の影響を受けた文体」と書かれているように、あれはカート・ボネガット・ジュニアの口癖の真似で、もっと正確に言えば、ヴォネガットを訳した浅倉久志と伊藤典夫の名訳の影響で、埴谷雄高の『死霊』を読んで「アッハ、プフィ」が流行ったように、「いや、ほんとの話」とか「ハイホー」とか「So it goes on.」(日本語訳忘れたけど確か原文はこうだった)とか、ヴォネガット語が蔓延したように、村上春樹や高橋源一郎はもろヴォネガットだったというのは、有名なので、なぜヴォネガットが出ないのか不思議。

天気さんのときはヴォネガットは下火だったのかなあ。

ですから、村上春樹も高橋源一郎も、ヴォネガット・ファンから歓迎されたり、二番煎じとか、けなされたりしておりました。あの頃は卒論もみなヴォネガットばやりで、とにかくヴォネガットにしびれまくりでした。わたくしも全作品読んで、ペンギンのペーパーバックまでロスで買い込んでた。まだ、村上春樹がデヴューする前でしたけど。
そのくらいヴォネガットには皆いかれました。
どのくらい凄いかは最高傑作の『ジェイルバード』の序文の語り口を読めばわかります。まだの人は立読みしてください。あんなにうまい序文は稀有。「愛は敗れても親切は勝つ」。このひと言で、俺でも結婚できるかもと思って、結婚したほど。

『猫のゆりかご』『スローターハウス5』『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』『ジェイルバード』は面白いよお~♪春樹のパラレル・ワールドはヴォネガットの焼き直しだということがわかります。面白いからいいけどね。特に『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』は傑作。それ以後はね、上下二冊で出ると、どっちから読んでもおんなじだけどね。分厚くても一冊で出さないと駄目だよ、春樹さん。うちのカミサンはわしが上巻読んでると下巻から読んでるから。確かにおんなじだなあボコノン。

天気 さんのコメント...

ヴォネガット、そういえば(英語でso-ever、ウソ)、記事に挙げた2つのブログ記事には出てきませんね。

どちらかの記事のコメント欄に、「スヌーピー」に頻出する「good grief」の谷川俊太郎訳が「やれやれ」だったとの指摘がありました。おもしろい指摘ですが、ニュアンス的にはちょっと別物のような感じもあります。