ホトトギス雑詠選抄〔10〕
春の部(三月)彼岸・下
猫髭 (文・写真)
≫承前
ところで、静雲も飄々として面白い句を詠むが、「彼岸婆々」百態とでも言えそうな句を、「ホトトギス雑詠選」の厳選にこれだけ選び続ける虚子も相当に変である。せいぜい一句だろう。現にほとんどの歳時記は一句で、盟友の富安風生など一句も載せていない。彼が載せているのは、
うとうとと彼岸の法話ありがたや 昭和5年
で、これは法話をしている坊さんが静雲自身だから、自分の法話でうとうとしている彼岸婆々たちを「ありがたや」と詠んでいるという面白さがある。山本健吉も、他の選者が当り障りの無い彼岸婆々を選んでいるのに、虚子が自分の歳時記で落とした「小水婆々」を選んでいるところも、結構茶目っ気がある。
それにしても、なぜ8句も最終選に残したのか。
多分、虚子のツボに入ったのである。虚子はバナナの句とか変な句を詠むが、それにしても、
川を見るバナヽの皮は手より落つ 昭和10年1月
川を見るバナゝの皮は手より落ち 昭和10年11月
川を見るバナナの皮は手より落ち 『五百句』
と三回、語尾や表記を推敲している。「バナナの皮」がツボに入ったとしか思えない。
無季句もそうである(註4)。
公園の茶屋の主の無愛想 昭和17年4月
16歳の八田木枯少年は、虚子先生や立子さんと句会をする行幸に恵まれ、67歳の虚子先生にこれは無季ではないですかと質問したかったが、引率してくれた市川東子先生に、質問は直接にではなく、「玉藻」の問答欄に活字でしなさいとたしなめられ、意見を書こうと思ったら、既に福田一雨から同じ質問が出ていて、虚子は「無季でした。削除すべきもの」という回答をしたにもかかわらず、今でも『六百句』に堂々と掲載されているので、八田木枯翁は、あの時聞いておくべきだったと悔やむのであるが、余程「無愛想」が虚子のツボに入ったとしか思えない。
稀に、普通の人がくすぐったいところがくすぐったくなく、変なところがくすぐったいというツボの人がいる。虚子もそうだったのではないだろうか。虚子のツボがどこにあるかを知ることが、わたくしには虚子を理解する一番の近道のように思える。
(了)
註4:八田木枯「無季の句」:『高浜虚子の世界』(角川学芸出版)所収
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