ホトトギス雑詠選抄〔11〕
春の部(三月)鮊子・下
猫髭 (文・写真)
内田慕情(うちだ・ぼじょう)は石川県摂津の俳人。明治14年~昭和21年。 京大医学部出身。当初「ホトトギス」に拠つたが、新興俳句勃興とともに「天の川」に依拠、「ホトトギス」から新興俳句に移った吉岡禅寺洞を師とする。終戦後、赴任先の中国で病死。
掲出句の「魳子(かますご)」は鮊子の異称。大阪での呼び名という。成魚が魳に似ているため。焼いて食うというのは新子ではなく、もう少し大きくなった1年物の「古せ」(5センチ~12センチ)かも知れない。3年以上の20センチを越えるサイズは「めろうど」と呼ばれ、刺身も美味だそうである。仙台の「炉端」では能く「目光(めひかり)」を食べたが、それに勝るとも劣らない味と「市場魚介類図鑑」にある。
慕情の句でインターネット検索により調べえた句は以下の4句。「ラガー」の句が印象に残る。
うそうそとうつろの音の白穂かな
腔のおとカオと仆れしラガー起つ
太陽と正し鼻梁と陰(ほと)隆く
還馬の毛深き脛の黄土あはれ
飛板を蹠かむとき風満ちぬ
安宅信一(あたか・しんいち)は田辺の俳人とのみしかわからない。鮊子の掲出句の中では一番侘び寂びが効いている。1句検索できた句を挙げる。
燈下親しわがためにのみ老ひし父母
阿波野青畝(あわの・せいほ)は、山口誓子、高野素十、水原秋桜子とともに『ホトトギス』の四Sの一人。
明治32年~平成4年。本名は敏雄。奈良県高市郡高取町に橋本長治・かね夫妻の4男として生まれる。幼少時に耳を患い、以後、難聴となる。大正6年、原田浜人(ひんじん)宅で催された句会で高浜虚子と出会い、師事。大正11年、野村泊月の『山茶花』に参加。大正12年、阿波野貞と結婚し婿養子となり改名。大正13年、25歳にして『ホトトギス』選者。昭和4年、橿原市の俳人多田桜朶らの起こした俳誌『かつらぎ』主宰。同年『ホトトギス』同人。昭和26年、虚子が年尾に「ホトトギス」主宰を譲ると同時に「ホトトギス」への投句を止める。弟子に加藤三七子あり。
句集は『万雨』『万両』『国原』『春の鳶』『紅葉の賀』『万華鏡』『花下微笑』『旅塵を払ふ』『あなたこなた』『こぞことし』『青蜥蜴』『不勝簪』『一九九三年』『甲子園』『除夜』『西湖』『宇宙』他多数。
青畝の「鉄枴(てっかい)」の句の出自は昭和37年9月に新樹社から出された虚子最後の『ホトトギス雑詠選集』(全2巻)から鮊子の題で一句載ったものだが、「昭和1」となっていて、この選集は昭和12年から昭和20年までなので、昭和17年の句集『国原』前後かと思われるが、欠落であり、現時点では出自不明。後日検証。
青畝は句集も数多だが秀句も数多。ここでは人口に膾炙した句を挙げておく。
さみだれのあまだればかり浮御堂 『万両』(昭和6年)
秋の谷とうんと銃(つつ)の谺かな 同上
案山子翁あち見こち見や芋嵐 同上
葛城の山懐に寝釈迦かな 同上
水ゆれて鳳凰堂へ蛇の首 『春の鳶』(昭和27年)
牡丹百二百三百門一つ 『紅葉の賀』(昭和37年)
山又山山桜又山桜 『甲子園』(昭和47年)
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