2010年3月10日水曜日

●あっぱれな投げ技 三宅やよい

【週俳第150号を読む】
あっぱれな投げ技


三宅やよい

広瀬ちえみの場合「週刊俳句」の読者が俳人であることを十分意識して作品をくりだしているように思う。

俳 人は大仰なことばや身振りは初手から拒否しがちである。ちえみの句は俳句の場ということで、あいさつの意味も込めて季感を揃え、想定される読み手との無用 な軋轢をはずしているのだろう。

が、その内実はしたたかである。言葉の違和や力みを感じさせることなく自分の懐へ相手を巻き込んでしま う。組んだ相手の力をうまく利用して投げをくらわすように、或る時は言葉の思い込みを逆手にとる。

とは言ってもどの句もさっぱりと明るい ので、投げられたことにもしばらくは気づかない。すっかり忘れたと思っていた日常のある瞬間、甘酸っぱい感覚とともに思い出すそんな川柳なのだ。

   新玉やボールが飛んできたら打つ

「新玉」は、あらたまの「年」「月」「日」にかかる枕言葉で「あらたまの年」は新年の意。それを十分ふ まえながら、新玉という表記を選んだのは続くボールを引き出すためだろうが、言葉やイメージが「飛んできたら」すかさず「打つ」とも考えられる。言葉を ジャストミートする前に季語にこだわってしまう俳人の窮屈さをかっとばしているようだ。

  鹿肉を食べた体を出ることば

鹿 は山間部などでは貴重な農作物を食い荒らす害獣でもある。年に何頭かは狩猟が許され、皮を剥がれた鹿肉が配られる。この肉を「人肉」と置き換えれば意味性 が重くなるし、「牛肉」であればただごとに近づきすぎる。それに比べて幾時か前まで野山を駆け回っていた鹿肉は日常との違和を醸し出す発酵度数が高い。銃 で仕留められた赤い肉を食べた身体から吐き出す言葉は生臭くなりそうだ。

  うしろ頭のうつろの中にお賽銭

ちゃりーんと 貯金箱のうしろの細い穴から硬貨を入れた音が聞こえそう。後頭部は自分で見ることは出来ないし、前のめりになった身体の後ろ頭は欠落していてぽっかり空白 かも。うしろから投げられるお賽銭の音が頭の中をちゃりーん、ちゃりーんとこだまして怖い。

  三が日過ぎて煙を出している

俳 人なら三が日を過ぎてああ、正月気分もうすれ日常がもどってきたのね。と一直線な解釈になだれ込みそうだけど、この煙は厨房の煙から人を焼く煙まで非常な 幅がありそうだ。インディアンの狼煙みたいに三が日過ぎた、襲撃開始だなんて煙をあげて合図しているのかもしれない。

  満月の顔をさ さっと整える

「満月の」で一回切れてささっと顔を整えるのか、満月そのものの顔を整えるのか、いずれにしても「ささっと」呼吸を整えて次 へ流してゆく句のようにも思えるが、どうなのだろう。

  雪山をところかまわずくすぐりぬ

白い雪山の下には俳人が想像す る「山笑う」「山眠る」の連想が仕込まれているのだろう。分厚い白い雪に覆われている無表情な山をところかまわずくすぐって笑わすのだ。そうしたら次々呑 みこんだ登山人を吐き出すかもしれない。うっかり笑ったあと、急いでもとの無表情に戻る様子を想像するとつんと取り澄ました雪山も近しくなる。

   ポケットに見知らぬ人の手がありぬ

ポケットに恋人の手があるのなら、あったかく嬉しいけど見知らぬ手がポケットの中にあったら痴漢かス リか。冷たくなった自分の手がモノのようにポケットにあるのも怖い。それでもそんな状況をさらっと言ってのけるこの作者ならどんな手でも握り返しそう。こ うやってちえみの川柳はにっこりと見知らぬ人のふところにしのびこんでいくのだ。


週刊俳句・第150号 川柳「バックストローク」まるごとプロデュース

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