いわきのこと
宮本佳世乃
週刊俳句に関さんが記事を寄せていたので、私も参加者として感じたことを残しておこうと思います。
私は7月にプロジェクト伝のいわきツアーに参加しました。ツイッターでの呼びかけを見たのがきっかけです。
最初は、私が行っていいのか、参加して何かできるか、はたまた、どんな格好で行けばいいのかなんてことまで考えていました。でも、上野駅でスーパーひたちに乗り、いくつもの蓮田を超えて、現地で迎えてくださった人々と話しているうちに、とても恥ずかしくなりました。私は、自分がどう思われるかとか、どうやって自分を守ろうかなんてことばかり考えていたんだって。
震災は一年半前にあって、私は(私たちは)いま、ふつうの生活を毎日送ってて。ふつうって、じゃあ、何? っていうと、衣食住、役割、活動休息、排泄、性、睡眠、おしゃべりなど、「その人にとって当たり前の」自分らしい生活なのかなって思ってます。
たぶん、それは、命が守られていることをはじめ、安全なコミュニケーション関係を築ける人がいること、自分の意思で何かを選ぶことができること、人権や尊厳が保たれていること、つまり安寧であることなんかが内包されている気がするんです。
だから、実は、被害が大きかったところを歩いたり、お話を伺ったり、二つに割れた鳥居を見たりしたのは、ものすごくつらかったし、ものすごく怖かったんです。それらと対峙することで、自分自身の内面をナイフにうつされているような思いでした。
せっかく参加したからすぐに意味を見出さなくてはいけないような気もしていた。今思えば、あせらずに時間をかけて、体験に意味付けをしていけばよかったんですけどね。
ただね、参加者として、というより一人の人間として、被害の大きかった地域にバスが止まったと同時に乗客が一斉に立ち上がって写真に撮るのは耐えられませんでした。ツアー中、もし私がそこに住んでいる人だったらどう思うだろう、ってことばかり考えていました。
写真で表す情報量は確かに大きい。誰に、どのように伝えるかによっても、おおくの効果を得られる。今回の週刊俳句の写真も、伝えていることはたくさんあると思います。
ただ、そこには人がいて、人びとたちぞれぞれの「ふつう」があって、それぞれの生活がある。あったんじゃなくて、今も、あるんだということ。たとえその土地に住んでいなくても、あるし、いる。「生」は続いているんだということ。それって、そんなに甘いもんじゃねーぞ、っていうことをしっかりと意識しておきたい。
せっかく来たんだからいわきでとれた魚を食べさせたかったと涙ぐみながら言ってくれたお父さん。逃げろ! と宿泊客を避難させても、写真を撮り続けたゑびすやさん。公民館で出してもらった大事な野菜。自分の子供世代が地元の野菜を食べないことを嘆いていた人。突然伺ったのに、じゃんがら念仏踊りを一緒に踊らせてくれ、また、鉦の指導もしてくれた菅波青年団のみなさん。円形の古墳のざりがにとか蛙とか。あ、それから、猫とか。シーフードケーキ(おいしいかまぼこ!)を食べさせてくれた「かねまん」の社長さんとか。
見てきたことももちろんだけど、人びとの様子とか、はなしとか、絶対に忘れない。
みやもと・かよの
1974年生まれ。「炎環」同人。「豆の木」会員。現代俳句協会青年部委員。2010年、合同句集「きざし」。
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