2013年8月21日水曜日
●水曜日の一句〔西川徹郎〕関悦史
関悦史
ゆめの続きのエスカレーターに巻き込まれ 西川徹郎
この作者としてはやや珍しい、現代の建築設備から“空間の詩学”を引き出した句。
次から次へと途切れ目なく足元に湧き出してくるエスカレーターの無機的な流れに見入るうちにあらわれる、引きずり込まれていくような眩惑感。そこから発して、思念の世界と事物の世界に両脚をかけ、一定速度で引き裂かれていくような恐怖と魅惑に至る。
「ゆめの続きの」は、カフカ『変身』の有名な書き出しのように「これは夢ではない」と明示しているのか、それとも一度見た夢の続きを再び寝入って見ているのか。どちらとも取れるが、両界の中間に位置して動き続けるエスカレーターの眩惑が主である以上、強いてはっきりさせる必要もない。
夢といえば内界であるはずだが、その中に在るエスカレーターに巻き込まれ、地獄下りのようにさらに夢の低層へと引き込まれてゆく。
あるいは、夢から覚めたあとの日常世界、自分の外に安定しているはずのありふれた建築設備が、不意に内部へ浸潤、混入はじめる。
位置関係を確定しているようでありながらこの「ゆめの続きの」はその両方を含意して内外を攪乱し重層化させているのだ。
単独でみるとそうした往還運動の感覚を孕んだ句だが、これは四句連作のなかの二句目で、句集では次の順に並ぶ(一四三ページ)。
鷗の殺意が分かる黄昏のエスカレーター
ゆめの続きのエスカレーターに巻き込まれ
ゆめのまたゆめのエスカレーターを知らない
首に巻きつくエスカレーターを首から外す
一句目は外界のエスカレーターであり、三句目は自分の中の不可知を冷え冷えと距離をもってあらわすエスカレーター、そして四句目は、夢から現実に持ち帰った異物のように身体にまつわり、首を絞めていたかもしれないエスカレーターだが、この四句目には危機感よりも、ことを終えた後の失墜感のようなものがある。「鷗の殺意」をきっかけに夢の底への通路を垣間見せられながら、交錯のはてにそこから締め出されたような。
その中でこの二句目の迷路的な混乱は、確実に愉楽に通じている。作者が句作に没頭しているときの感覚もこのようなものなのではないか。
句集『幻想詩篇 天使の悪夢 九千句』(2013.6 茜屋書店)所収。
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1 件のコメント:
子供の頃から、エレベーターとエスカレーター、どちらがどちらだかわからなくなります。
頭の中で「死刑台のエレベーター」と言うと区別がつきます。
セリーグとパリーグも大人になるまでわからなかったんですが、田中さんと言う方が「ジャイアンツはセックスのセだ。」と言いきっていたのでそれから区別がつくようになりました。
いつもくだらないコメントですみません。
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