2015年1月6日火曜日

新シリーズ〔ためしがき〕読み初め 福田若之

新シリーズ〔ためしがき〕
読み初め

福田若之


去年のうちに、今年の読み初めはこれと決めてあった。ちくま学芸文庫の『ベンヤミン・コレクション』の第2巻『エッセイの思想』に冒頭の一篇として収められた、「蔵書の荷解きをする」という文章だ。

たとえば「複製技術時代の芸術作品」におけるベンヤミンは、差し迫ったファシズムの危機に対抗しようとする一人の英雄的な批評家として立ち上がらざるをえないようなところがあるけれど、これはもっと力をぬいた、ともすれば笑ってしまうこと請け合いの、書物への愛に溢れた読み物だと思う。次の一文から始まる。「私はいま蔵書の荷解きをするところです(14頁)」。そして、読者は彼に導かれて文章の中へと入っていく。
私が皆さんにお願いしなければならないのは、蓋を開けた木箱が雑然と置かれているところへ私といっしょに歩を運んでいただきたいということ、木屑混じりの埃が充満した空気のなかへ、紙屑の散らかった床のうえへ、二年間の闇からたったいま再び昼の光のもとに引き出されて積み上げられた書物の山のふもとへと、歩を運んでいただきたいということなのです。そうすれば皆さんにも、それらの書物が真正なる蒐集家のうちに呼び醒ます気分というものを、それは哀調を帯びたものではまったくなくて、むしろ期待に張り詰めたものなのですが、その気分のいくらかなりとも、最初のところから分かちあっていただけようかと思うからです。(14頁)
ベンヤミンは、書物の蒐集の手段について、次の順番で四つを示す。
1. 手に入れたい本を自力で書いてしまう。(19頁)
2. 本を借りて、かつ、返さないでおく。(19頁)
3. 購入する。(21頁)
4. 遺産として相続する。(29頁)
一つ目(これは、いうなれば書物に関するDIYだ)もかなり奇矯な策だけれど、なによりも、二つめが三つ目の前に置かれているというのが、おいおい何を言い出すんだヴァルター、という感じだ。
私たちがいまここでありありと思い浮かべることのできるような、並はずれた図書借り出し魔は、根っからの書籍蒐集家であることが分かります。それはたとえば、彼が借り集めた宝物を大切に守り、しかも法的生活の日常から発せられる一切の警告に耳を塞ぎ続ける、その熱烈なる心情によって明らかになるばかりではなく、それよりもずっと、彼もまたその借り集めた本を読みはしない、ということによって証明されるのです。(19-20頁)
いや、それ、ほんと駄目だからね?

このへんで、ちょっとベンヤミンについての認識が改まる感じがある。この人は、さすがにルソーのようにはっきりと盗んだりはしないわけだけれど……。

ところで、三つ目の購入するという段で、ベンヤミンが本屋を探して長いこと街をうろつくことになるかというと、たしかにうろつきはするのだが(「蒐集家は戦術的な本能を具えた人間です。その経験によれば、蒐集家が見知らぬ街を攻略する場合には、最も小さな古本屋が要塞を意味したり、いちばん町はずれの文具店が要衝を意味していたりすることがあります(22頁)」)、これがさほど重要視されないというのがまた面白い。ベンヤミンにとってはむしろ、本は、取り寄せたカタログのなかから選んで注文するものである(「そして、カタログによって注文したその本のことを、買い手がどれほどよく知っている場合でも、その一冊はいつも予期せぬ驚きであり、注文にはいつも何かしら賭事めいたところが付きまといます(22頁)」)。今日で言うところの、Amazonでポチるというやつだ。
カタログを見て書物を買い求める人は、右に挙げたお金と専門的知識に加えて、いまひとつ、鋭敏な嗅覚を具えていなければなりません。刊行年、刊行地の名、版型、以前の所有者たち、装丁など、こうした事柄すべてが、蒐集家に何かを語りかけるものでなければならないのです。(23-24頁)
そして、もうひとつ、ベンヤミンが挙げるのは、オークションで競り落とすという購入方法である。
オークションに割って入ろうという人は、本と競争相手とに等分の注意を払わねばなりませんし、そのほかさらに、充分に冷静な頭を保持していなければなりません。と申しますのは――これは普段でもよくあることですが――競りあいの争いにのめりこんでしまわないため、そしてあげくの果てに、その本を手に入れたいということよりも、自分の面子を立てたいばかりに競争相手と張りあってしまったとき、自分のつけた高値で身動きがとれなくなる、といった事態に陥らないためです(24頁)。
ベンヤミンはオークションでのこうした駆け引きについて、より具体的に次のようなことも言っている。
実に単純な話ではありますが、私が値をつけると、それによって私はこの出物を確実に他人に斡旋することとなるにちがいなから、私は値をつけてはならないというわけです。私は自分の気持を抑え、黙ったままでいました。私の期待したことがずばり的中しました。誰も関心を示さず、誰も値をつけずに終わり、この本の競売は流れたのです。私はなお数日間見送るのが賢明だろうと考えました。事実、一週間後に行ってみると、当の本はその古本屋に並べられてありました。つまり、競売の品に対してまったく関心をもってはいないという態度を示してみせたことが、私がその品を手に入れるのに役立った次第です。(28頁)
これに似たことは、ネットオークションでもしばしばあり得ることであるように思う(早くから入札すると、値がつりあがってしまう。一方で、競売が繰り返し流れると、出品者は最低落札価格を下げる)。Amazonとヤフオクが重宝される土壌は、ベンヤミンの時代にはすでに培われていたということかもしれない。

とはいえ、こうしたことはベンヤミンの本題ではないだろう。蒐集行為の本質とは何かということを、ベンヤミンは次の一節で言っていて、それこそが重要なことだと思われる。
いま私の頭のなかを満たしているのは、ここまでお話してきたこととは別の考えです。いや、考えといったものではなく、さまざまなイメージ、さまざまな思い出なのです。(31頁)
つまり、蒐集家というのは、結局のところ、記憶の蒐集家であって、思い出の蒐集家なのだ。では、蒐集家の死後、それはどうなるだろうか。この問題は、トマス・ピンチョン『競売ナンバー49の叫び』にそのままつながっているだろう。というわけで、僕はこれからそれを読み返すことにしたい。
以上で私は皆さんに、本を礎石とする館をひとつ建てて御覧に入れたわけです。さて、これをもって蒐集家は、当然しごく、そのなかに姿を消すと致しましょう。(32頁)



0 件のコメント: