2015年4月22日水曜日

●水曜日の一句〔涼野海音〕関悦史



関悦史








桜咲くゼロ系新幹線の鼻  涼野海音


絵葉書のような平板でめでたい絵柄の句と初めは見えた。

ゼロ系新幹線は東海道新幹線が開業する時に開発された初代車両で、2008年には営業運転を終え、引退したらしい。新幹線といえば最初に思い浮かぶ白地に青のあの車両だが、その後新型が次々に出てきたので、この辺の印象も世代によって違ってくるのかもしれない。

句の制作年代を知らなくても、句のなかに「ゼロ系新幹線」と書かれている。初代しか走っていなかった頃ならば「ゼロ系」と書かずとも「新幹線」といえばあれに決まっていたので、既に姿かたちの違う新型車両が一般化した後のこととわかる。晴れやかな印象の句だが、昔の物という認識が入っているのだ。

初代新幹線が開通した頃といえば高度成長期であり(これは私の年でも実見はしていない)、「桜咲く」が似つかわしいが、これを時代の隠喩とばかり取ると重くなるので、どちらかというと単なる絵柄と取る方を優先したい。

「鼻」の一語で像が決まる。諧謔的な働きのために入っているというよりは、ピントを合わせるための「鼻」だろう。これがなければ、花時をを遠景として通過していく列車や、桜前線や新幹線の路線網といった地図を俯瞰するようなイメージまでが混ざってしまう。

顔の部分を強調したことでブロマイドじみた図柄となり、これも「桜咲く」ともども鄙びたキッチュさの味わいを増す。その平板さが、懐旧の重さに陥ることを防いでいるので、失われた物を詠んでいながら、めでたい句と見えるのだが、そのネガとして、廃車両を前に情緒的な廃墟趣味に溺れた句という相もひそんではいる。

どちらに見えるかはその人次第なのだろうが、やはり俳句のなかの時空に華やかな姿が保存された、めでたい句と取っておきたい。


『関西俳句なう』(2015.3 本阿弥書店)所収。

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

>廃車両を前に情緒的な廃墟趣味に溺れ

廃墟趣味、いいじゃないですか。
古臭いと言うだけでその価値を顧みず
何でも破棄してしまう不届き者よりは
余程まともな感覚です。
その趣味と取ってもこの句はいい。