2015年7月25日土曜日

【みみず・ぶっくす 32】 どのようにしてあなたは 小津夜景

【みみず・ぶっくす 32】 
どのようにしてあなたは

小津夜景







 他人の内面に触れてみたい、というのは、どう取り繕ってみても品の良い欲望ではない。自分のものではないのだから、その内面との距離は、ぼんやり眺めているくらいがちょうどよいのだ。おそらく。
 とはいえ、その他人というのがもしも好きな人であったとしたら、やはり触れてみざるをえないだろう、とも思う。
 こう思うのは、わたしが中年であることと多分に関係している。若い頃はこうした感情は湧かなかった。それが歳を重ね、なんとなくぼんやり眺めていたら突然その人がころっと死んでしまった、なんてシチュエーションに遭遇しているうちに、いつしか、触れておかなくては、と考える人になってしまったらしい。
 もっとも触れてみるといっても、なにか特別な方法がある訳ではない。その人に尋ねたいことも別段思い浮かばない。いやちがう、あるにはあるのだけれど、答えることのできるような問いではない、といった感じ。だって、いったいあなたは、どのようにして、そのような人になったのか?というのが、決まってわたしの知りたい唯一のことだから。
 ところで普段わたしは武術をやっていて、当然はじめて導いてくれた師というのがいるのだが、ある日その師が四十五の若さで死んだ。それは本当に思いがけないできごとで、師が死んで数年の間は、ほかの誰かに武術のあれこれを尋ねる気にもなれず、わたしは無言のまま練習に通った。そのころのわたしはもう一生ひとに質問をすることなどないと固く信じ込んでいた。わたしが知りたいのは、いつだって極私的な内面(世の中には私的じゃないもろもろから内面ができあがっている人も少なくない)を反映した答えだったし、またその内面とは師のそれ以外にありえなかった。
 と、こう書くと、師とわたしとの間に強い絆があったかのような雰囲気だがそんなものは皆無である。それどころか自分から師に話しかけたことさえただの一度もなかった。わたしはそのことを今でも後悔している。

 あなたは、どのようにして、そのような人になったのか?

 ある年齢を過ぎると、野が突如としてさわだつように、問いがいっせいに過去を向きはじめる。またそれと同時に答えというものに全く興味がなくなってしまう。そのとき人は、いまここに存在していることがすでに答えであり、また己から発せられる問いとは問いのふりをした詠嘆にすぎない、とうすうす勘づいている。
 問いのふりをした詠嘆。その人が生きて在ることへの感慨。死ぬまえに触れなければという焦燥。思えば、答えよりむしろいかに問うかが重要だ、とか、答えはないなぜなら問題がないから、などといった物事の条理に対する興味はとうになくなってしまった。今のわたしにあるのは、問いにも答えにも無頓着となった欲望の本性のみだ。

跋(おくがき)やいまもカモメの暮らし向き
戯れを盛るによろしき氷の器
夏帽子ぬげば未完の詩のやうで
命日のそよと涼しきリフレイン
起こし絵を畳み帰らぬ人となる
サイダーをほぐす形状記憶の手
生も死も未遂ゼリーを抉る日は
会へばその静かな脈を想ふ凪
偶像に夕映えのあるギターかな
黄の泉あふるるごとく産卵す
 

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