2015年7月21日火曜日

〔ためしがき〕 抜歯の光景 福田若之

〔ためしがき〕
抜歯の光景

福田若之


まずは、あらためてこの光景を見ることからはじめよう。


ヘラルト・ファン・ホントホルストが1627年に描いた『抜歯屋』である。17世紀のオランダでは、このような麻酔を使わない抜歯による治療が行なわれていたらしい。市場に店を出して、歯を抜く。これはちょっとした見世物のような扱いをされていたらしく、こんなふうに人だかりができている。画面左端の男は、抜歯の衝撃的な光景を食い入るように見つめている女性の籠から、鳥を掏ろうとしている。

抜歯屋の笑顔は歯を抜かれに来た客を安心させるためのものなのか、それともサディスティックな性的嗜好のあらわれなのか。

それにしても、この絵が別の光景を思い起こさせるのは、構図の類似のためだろうか。


これは、カラヴァッジョが1598年ごろに描いた『ホロフェルネスの首を斬るユディト』である。

もちろん、もともと文脈の全く異なる二つの光景であるから、細部を見れば違いはいくらでもある。たとえば、抜歯屋が中年の男で、口元に笑いを浮かべているのに対し、ユディトは若い女で、顔をしかめている。抜歯屋がしっかり客の頭を押さえ込んでいるのに比べて、ユディトは、返り血をあびないようにするためか、ホロフェルネスからかなり身を遠ざけるようにしている、などなど。

だが、二つの光景には、ひとつだけ、決定的な類似――ほとんど一致と言ってもいい――がある。そして、これらの光景は、まさしくその類似によって、僕らにとっては衝撃的であるひとつの真理を示しているように思われるのだ。

その類似とはなにか。それは、抜歯屋の客と斬首されるホロフェルネスの表情の類似である。二人は一様に、両目を見開き、眉を吊り上げ、額に皺を寄せ、口をゆがめて開いている。両者の頭髪と髭のつき方が似通っているだけに、二人の表情が純粋に表情としてどれほど同じであるかがはっきり見て取れる。

では、このことが示唆することとはなにか。おそらく、こんな風に書くことができるのだ――

人は、首を斬られるとき、せいぜい歯を抜かれるときと同じ程度にしか恐怖を表情に表わすことができない。

首を斬られることに比べれば、歯を抜かれることのほうがずっとましなはずだ(少なくとも死にはしない)。だが、それさえすでに、人間が顔に表わすことのできる恐怖の限界を超えている。斬首とは、はたしてどれほどの恐怖だろうか。その恐怖はおそらく、斬首されるものの顔からうかがい知れるものをはるかに超えている。すなわち、この恐怖は、表れることがないもの、したがって何かを読んで知るということができないものなのだ。僕らは、実際に斬首されなければ、その恐怖をついに知ることはないだろう。ただ、それが顔をはるかに超えてしまっているということだけを僕らは知っている。

見世物としての抜歯は、それ自体、斬首の代替物だったのかもしれない。人間は心のどこかに怖いもの見たさを秘めているのだろう。かつて斬首が見世物となりえたことを僕らは知っている。だが、そうそう人間の首を斬るわけにはいかないから、人々は抜歯で我慢することにしたのではないだろうか。幸いにして、見ることのできるものは、同じような他人の同じような恐怖の表情である。

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

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